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スペイン巡礼路へ   2009年4月


 「フランス人の道」

 「カミーノへの扉は、すべての人に対して開かれている。病気のものにも、健康なものにも、カトリックの信者だけではなく、異教徒にも、なまけものにも、そして中身のない人間にも。善良なものにも、俗人にも開かれている」・・・カミーノ・デ・コンポステーラ(スペイン巡礼路)を目指すものへのメッセージである。

 スペイン北西部の中世の面影を残す街、サンティアゴ・デ・コンポステーラは、エルサレム、ローマと並ぶキリスト教三大聖地のひとつとされ、9世紀にキリスト十二使徒の一人である聖ヤコブの墓が見つかったことから、11〜12世紀には多くの巡礼者が向かった。巡礼路のシンボルはホタテ貝で、サンティアゴへの方角を示すサインとして道のあちこちに示され、彼らを励まし、ガイドしたという。

 サンティアゴを目指す巡礼路はいくつかあるが、フランス南東部の街ル・ピュイから、ピレネー山脈を越えてスペインへと、ひたすら西に向かうルートは最も有名かつポピュラーで、「フランス人の道」(約1500キロ)とも呼ばれている。その大部分は厳しい峠越えと赤茶けた荒涼たる原野を通過しなければならず、巡礼者を痛みつけるという。

 今回の海外自転車旅は、この「フランス人の道」のうち、スペインとの国境近くのフランス側からスタートし、なるべく巡礼路に沿いつつ、一般道も併用して、ゴールのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、約800キロを走ることにしたい。



 徒歩による旅は、古来から旅の原形である。交通手段が発達した今日では、旅のスタイルは激変し、そのことによって多くの得難いものを失ってしまった感もあるのだが、ここにはヨーロッパの昔ながらの歩くという旅のスタイルが残され、今も受け継がれている、このルートを自転車で走ることにより、人びとが何故、困難な徒歩による旅に惹かれるのか、人びとは何を思いつつ歩いているのか。そんなことにも接してみたい。
 自転車の旅は徒歩旅行に近いが、それほど苦しくもない。したがって得るものも徒歩旅行ほど豊かでないかもしれないけれど、徒歩による巡礼者とほぼ同じ目線で体験してみたい。

 この巡礼路には巡礼者を安全に導くための救護所、避難所なども備えられ、徒歩旅行ならではのアクシデントなどにも対処できるようになっている。今日、この巡礼路を訪れるものは、その60%がスペイン人で、残り40%が外国人という。男性は60%で、自転車での巡礼は20%。ちなみに2003年には13624人が自転車で10日〜14日間かけてサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指したという。ボクもサイクリスト向けにイギリス人がまとめたガイドブックを片手にこのルートを目指す。


 ボクが走るルートのスタート地点はバスク地方と呼ばれる。バスクはピレネー山脈をはさむフランスとスペインの双方にまたがって存在しながら、古来から両国の政治的関係とは無関係に独特の文化圏を築いており、独立の気風が強いところである。現在、スペイン側のバスクは中央政府から自治州として認められ「大統領」や「首都」も存在するという不思議な存在でもある。一方で独立をめざす過激派は1960年代から騒ぎを起こしたが、現在は落ち着いており、自治州は古来からのヨーロッパの山国の静かな生活文化の保護と、独特の言語といわれるバスク語の普及に取り組んでいるという。そのバスク地方を走りながら、その文化や人びとの暮らしぶりなども見てみたい。

 旅の後半は、 サンティアゴ・デ・コンポステーラから南下し、ポルトガルの北部の豊穣なポルトワイン地帯を走りつつ、大航海時代の軌跡などを訪ね、ポルト、リスボンにも立ち寄って運命に翻弄される人の心を歌うというファドにも触れ、スペインに入ってセビーリャ、トレド、マドリッドも訪れるつもりだ。この二つの国は特に日本の「近代化」に決定的な影響を及ぼした国であった。もたらされた鉄砲によって戦国時代の戦いは一変し、全国統一への速度を速める結果をもたらし、キリシタンというヨーロッパの宗教とその精神世界を日本に根付かせる結果にもなり、当時としては長崎というへんぴな場所が彼らの寄港地として開発・建設された結果、全国有数の都市へと発展する元ともなった。それらについて決定的役割を果たしたのはザビエルである。ザビエルはまた、偶然とも言えるがバスク人でもある。この事情は司馬遼太郎の「南蛮への道」に詳しく展開されているが、そうしたことにも思いを馳せながら、この旅を始めたい。泊まるところは、ホステルのほか、アルベルゲと呼ばれる巡礼宿だ。あるところは2段ベッド風であったり、教会堂のフロアのすのこで寝たりするという。そのほか今回も、草の根国際交流組織「サーバス」の会員宅にもお世話になる。はたしてどのような出合いがあるだろうか。

  サンティアゴ・デ・コンポステーラのコンポステーラとは、「星の平原」という意味。
 サンティアゴは、聖ヤコブのスペイン語名で、フランス語ではサン・ジャック、英語ではジェイムスとなる。
 この巡礼路全体が1993年に世界遺産に登録され、また紀伊半島の熊野古道とは姉妹路の関係にある。


  「ブエン・カミーノ」

 4月4日。長年温めていたボクのスペイン巡礼路自転車旅は、南フランスはバイヨンヌの駅から始まった。巡礼路のスタート地点、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーに向かうローカル列車に自転車ごと乗り込んだら、そこはもう巡礼者達の世界だった。お互いの挨拶は「ブエン・カミーノ」・・・直訳すれば「良き道を」、日本流に云えば「お気を付けて」とでもいうのだろう。巡礼者同志が出会ったとき、別れるときにこの言葉を交わしあう。

 バルセロナから来たという背の低い小太りの男性が早速「ブエン・カミーノ」と声をかけてきた。彼は今回は9回目の巡礼だという。8回目の昨年、ガールフレンドを見つけたといい、今回はそのフランス人の彼女と一緒だと得意げに紹介してくれた。そして彼女とは来年に結婚する予定で、1週間の休暇で来ているので、途中の街までで引き返すことなど、初対面の人間に云う必要のないことまで、話しかけてくる。スペイン人はやはり陽気だ。

  バイヨンヌからサン・ジャン・ピエ・ド・ポーへの1両だけのディーゼルカーはとても美しい渓谷をトコトコ走り、ピレネー山脈の前衛と思われる山々も見え隠れする。その一部に冠雪も見えるではないか。彼女を獲得したスペイン男は、「あんなところまでは行かないから安心しろ」と雪の峠を心配したボクを見透かしたように云う。

 サン・ジャン・ピエ・ド・ポーの町は、すこし開けた台地にある。町はずれの駅から中心部へ登り気味に自転車を走らせる。古い山城風の固まりとカテドラルが一体化し、それをつなぐ坂道にへばりついたように並んでいる巡礼宿やホテル、レストラン、土産物屋など、ここには一種独特の雰囲気がある。
 旅人の多くはここからスタートする巡礼に期待を込めつつ、巡礼事務所でパスポートと呼ばれている巡礼手帳を受取り、ユースホステルのような、そしてさらに小規模で人情味のある宿泊施設アルベルゲを確保し、バーやレストランに出かけて明日の出発に備え、早めに就寝するといった生活をする。
 なにしろ、一般の巡礼者は明日は850メートルの標高差を登りきり、ピレネー越えを果たさなければ、先に進めないからだ。平均しても、800キロ先のゴールであるサンチアゴ・デ・コンポステラまでは1カ月以上かかる。最初の試練を明日に控えているのだ。

 ここのアルベルゲは4〜5人毎の小部屋に分かれた1段ベットで、家族部屋もあるものの、これが中心。朝の7時前になると宿のおばさんが起こしに来る。アルベルゲの朝は早く、日本の山小屋の雰囲気に似ていなくもない。日本流に云えば、「早寝、早発ち」といったところか。実は、宿さがしでキョロキョロと自転車を引きながら歩いていたら、マドリッドの幸せ男が「ここがいいよ」と宿の2階から声を掛けてくれたのだった。
 もちろん、周りの一般ホテルも利用できるが、なんといっても魅力なのは、その料金の安さだ。1泊朝食付で12ユーロ・・・約1500円といったところだ。これから先さらに巡礼路を進めば、もっと安いところもあるという。1日わずか20キロ程度しか歩くことができない徒歩旅行者にとっては、宿泊のためにお金を掛けられない長旅の巡礼だから、昔からこうしたアルベルゲが栄えているのだ。

 このサン・ジャン・ピエ・ド・ポーの町でボクも巡礼帳をもらい、みなさんと同じように過ごしながら、帰化したバスク人カンドウ宣教師の生家を訪れたりした。彼は日本語で「バスクは特別に恵まれた国」と記している。土産物屋ではバスク名物のベレー帽が売られていたし、道すがらクリーム色の壁に赤い縁取り窓を持つ、この地方独特の家々を見て、その豊かな暮らしぶりに接することもできた。(走行3キロ)



  霧のピレーネー越え

 4月5日。いよいよサン・ジャン・ピエ・ド・ポーをスタートし、途中国境を越えてサンチアゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼の道のスタートだ。アルベルゲのアディーナ叔母さん(76)は、ボクのあご髭が気になるらしく、切れ切れとうるさい。朝はパンとコーヒーだけの簡素なもの。朝食のテーブルで顔を合わせたのはほとんどスペイン人ばかりの12人で、この叔母さん、フランス語でいろいろ冗談を言っているが、最後に日本人だけがわからないよ・・・と云っていたらしい。ボクが「ジャポネ」という単語を手がかりに、「ボクのことを話しているのか」と英語が話せるスペイン人に聞いてもらった結果がこれだった。

 スタートは8時半。今にも降りそうな空だ。そしていきなり登り坂が始まった。緩い坂だがこれが延々と続く。登り始めの風景は大糸線の大町の雰囲気か、東京の檜原村あたりを思わせる。緑が多い。舗装状態はきわめて良い。途中の人家では面白い風習を見ることができる。同じ木の枝を繋いで癒着させたり、隣の木の枝と同じことをして、玄関先をパラソルのように飾っているのだ。あとで聞くとプラタナスの樹だそうだ。

 歩く巡礼路は、ボクが走っている一般道路を縫うようにショートカットしながら、細々と続き、同じように登っている。時には下りもあるので、歩くほうがさらに大変だろう。標高800メートルで残雪を発見。昼前にイバネタ峠(1057メートル)に着く。27キロの長い登りの連続だった。出発して3時間と少々で標高差800メートルを登り切り、ピレーネー山脈を越えた瞬間だ。
 峠には十字架がある避難所のような、教会のような建物があり、濃霧の時は鐘をついて知らせるというが、今日の霧も視界30メートルとすごかったが鐘の音を聞くことはなかった。この峠はほぼ通年、霧の中にあるようだ。

 峠を越えて下るとすぐにロンセスバジェス(標高952m)がある。かなりの規模の僧院といったたたずまいで、巡礼宿アルベルゲを兼ねている。泊まるときは1000円以内の寄付が必要だ。アルベルゲの入口には今年の3月末にチェコを発った15歳の少年が巡礼路で行方不明になったという両親からの悲痛な情報提供をもとめる顔写真入りのポスターが張られていた。

 ここからは緩やかに下りながら標高700から800メートルの台地に入ってゆく。驚いたのは、いきなり霧が晴れたことだった。あれほどすごい霧だったのに見事というほかない。台地の中程から見ると残雪を抱いたピレネーの山々と峠から流れ降りてくる霧が滝のように見える。
 エロー峠(標高810m)をバテバテで登り切ったら、徒歩の巡礼者たちが休憩していた。そのうちの1組のカップルと挨拶を交わしあったところ、マドリッドからだといい、オレンジを勧めてくれた。バテた体にはとても美味しい。スペイン産だという。彼らには悪いけど、ボクは別ルートで彼らを追い越し、パンプローナまで走らねばならない。

 パンプローナはヘミングウェイの「日はまた昇る」に描かれた牛追い祭で有名だ。そのカテドラルを見たが、南東50キロ先のザビエル生誕のハビエル城へは、体力が持ちそうにない。(走行79km)



  道しるべはホタテ貝

 4月6日。10時半、25キロ走ってプエンテ・レイナの「王妃の橋」を渡る。ここで自転車の2人組と初めて会う。MTBに乗っている彼らは巡礼路をたどっているようだ。自転車で巡礼路を行くのはかなりハードで、ボクのランドナーでは無理だ。ほとんどハイキング道のようで、所々には急坂や階段もあるから…。

 途中で、ホシェ・ルイスというスペイン人サイクリストと出会い、すこし英語ができる彼と話しながら走る。マドリッドから初めて来たが、パンプローナからサンチアゴ・デ・コンポステラまで9日間で走る計画だという。
 ボクの場合はピレネー越えも含まれているので2週間としたが、ボクの計画より短い。彼はボクの今日の到着地点より先に行きたいと云う。タイヤの調子も見たいというので、途中で別れた。

 起伏のある標高400メートルから500メートルの平原をアップダウンを繰り返して走っている。遠くでは牧草地を切り裂いて巡礼路が延びており、巡礼者たちが三々五々歩いているのが見える。午後4時半頃、ビアナに着いた。
 スペインのこのあたりでは、街は丘の上に築かれている。外敵から街を守る、あるいは敵を早く発見できるといった、やはり歴史的な事情があったのだろう。ビアナも同じで、遠くから見ると丘の最も高いところにカテドラルがあり、それを囲んで旧市街があって、裾には新市街が広がっている。緑の平原に茶色の街が浮かびあがり、まるで絵に描いたようで美しい。それが起伏のある大平原にポツポツといった感じで散在しているのだ。

 というわけで、ビアナの旧市街への坂道をホタテ貝マークに導かれて自転車を押し上げる。アルベルゲは簡単に見つかった。外観は旧市街にとけ込んだ伝統的な石造りで内部はユースホステルの設備を誇っている。これで1泊6ユーロだ。800円もしない。
 こんなに安い施設はほかでは考えられない。1ヶ月以上の泊まり歩きが必要となる、ここスペイン巡礼路だけのシステムだろう。別のアルベルゲでは、もし金の持ち合わせがない場合は、払わなくてもよく、必要なら寄金箱から金を持っていってもよいというところもあると何かの本で読んだ。苦しく、長い旅を続ける巡礼者への相互扶助のシステムだったのが、現在まで残っているのだろう。ボクにあてがわれたベッドは12人部屋の3段ベッドの一番上。清潔だが、毛布のたぐいはない。巡礼路では寝袋持参が原則だからで、場合によってはマットも必要なところもある。それでも、日本の山小屋泊まりの旅よりは快適だろう。昔は缶詰のイワシのように折り重なるようにして寝かされたものだが、いまの日本の山小屋はどんなものだろう。

 ボクのベッドの一番下は、バルセロナ郊外から来た、中年女性で日立の現地工場でエアコンを組み立てる仕事をしているといって、英語が話せる。ただし日本語は「コンニチワ」程度。
 みなさん自炊しているようだが、今日も疲れたのでバールで1品料理を2〜3皿食べて早めに寝てしまった。(走行88キロ)



  豪華な無料アルベルゲ

 4月7日。昨夜の雨が雪になったのだろう、遠くの山がうっすらと雪化粧をしている。平野の土の色も黄土色から煉瓦色に変化してきた。いよいよスペインのメセナ地帯に入ってくる。
 今日はほぼ一般道沿いに走ったが、すぐ横は制限時速120キロまでだせる一般道なので、気が抜けないし、騒音もうるさい。かと云って巡礼路に入ると雨上がりの赤い泥んこ道を行くはめになり、これしか選択肢がない。

 午後3時半頃、大平原の中のサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダに着いた。ここはノッペラボウな平原の街で、いままで見てきた丘の上の街とは違う。例のごとく、ホタテ貝の道しるべに導かれて、自然とアルベルゲに誘ってくれる。石畳の上にも、このホタテ貝の道しるべがあり、写真に撮ろうと戻ったところ、地元の男性から「アルベルゲ」と向かっているほうを指してくれた。地元の人の巡礼者を迎える気持ちが表れている。

 アルベルゲに着いてさらに驚く。窓の外から内部をうかがっていたら、手招きをして入れという仕草。
 内部はすごく豪華で、まるでホテルのフロントだ。パスポートを見せてくださいとスペイン語で云われたので、クレデンシャル・・・巡礼路の要所要所でスタンプをもらったカードを出す。これが、巡礼路の「パスポート」なのだ。これには氏名はもちろんのこと出身国のほか、本物のパスポート番号まで書かれている。出発地点のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーで作ってくれたものだ。

 初老の女性は…もちろん英語は話せない…ボクの「パスポート」をチェックして、このアルベルゲは今日がリニューアルのオープン日なのと手真似で云う。ボクは「お幾らですか」というが、もちろん通じない。受付待ちををしていた英語が話せる男性が、「ここは無料なのだ。もしあなたに気持ちがあるなら、そこの箱になにがしかのものを入れればいい」とアドバイスしてくれた。
 ボクは驚いた。こんな豪華施設が無料とは・・・。もちろん、何かの本で読んでいたことなので、ほんの僅かばかりのお金(5ユーロ)を迷うことなく、「お布施」した。昨日泊まった施設よりもさらに充実しており、これが無料で泊まれるとは本当に信じがたい。(走行65キロ)



  世界遺産、ブルゴスのカテドラル

 4月8日。今日は日本で云えば11月下旬の秋冷な感じで寒い。空には群雲が広がっている。遠くに見える巡礼者のなかには足を引きずっている人もいる。マメの手当を受けている人もいる。巡礼路を歩くのは過酷だ。
 巡礼路を行くMTBはおよそ時速10キロから13キロほどで、ダートと泥濘に苦しめられている。こちらは一般道をクルマとシェアしているので、車線を守ることに気を遣うだけ。大型トラックの追い抜き様の風圧で外に押し出され、通過直後には逆に吸い寄せられる。だから、その直後のクルマに注意が必要だ。

 一般道でMTBの2人組を2組も追い越す。「ブエン・カミーノ」と声を掛けて…。
 巡礼者の性別や年齢は実に様々。少年から高齢者まで、家族連れからカップル、そして一人旅など…。国別では、スペイン人が圧倒的で、フランスからも多い。今日、会ったのはカナダからのサイクリストと、マドリッドと南米コロンビアからのカップル…彼らはミニベロだった。
 こうしてブルゴスのアルベルゲに到着。ここも新しいアルベルゲだ。

 夕食後、トレド、セビーリャと並ぶスペイン三大カテドラルの一つを見学する。完成まで3世紀を要した世界遺産でもある。祈りの場所には一般旅行者は入れない。内部の写真撮影も禁止。たしかに大きく、堂々としていて、威厳に満ちている。外側では修復工事が行われていた。このカテドラルの近くにカトリックの堕胎禁止を批判した女性の下半身の露骨なポスターが張られていて違和感を覚えたが、これが現実だ。

 アルベルゲに戻ると、地元の人たちが集会を開いていた。リニューアルに協力した人たちへのお披露目かもしれない。会場の廊下で2人の男の子連れの父親から簡単な質問を受ける。彼らにとっても巡礼者と交流することもいいことなのだろう。(走行76キロ)



  カスティーリャ大平原

 4月9日。標高800メートルのカスティーリャ平原。メセタと呼ばれる高地を行く。今日は長い距離だ。
 早朝のアルベルゲでマドリッド美人としばらく立ち話。酒飲みの鼾がすごくて眠れないのとのこと。イースターの休暇を利用して4日間の旅だそうだ。バスで移動して逆方向を目指している9人のグループとか。彼女の英語は単語を探すのに苦労しているようで面白い。

 このところ予想以上の低温が続いている。走っていると手の先が痺れてくる。とても寒くて、昨日と同じ11月頃の気候だ。
 数キロに及ぶ長い長い下りを走る。日本ではまず体験出来ないような長い距離だ。体が冷えてくる。風を切る音と小鳥のさえずりだけが聞こえる。
 横穴を掘ったワインの貯蔵庫が並んだ昔からの風景のすぐそばを通る。10基あまりあるだろうか。

 かなり強い南風に捕まっている。こういうときは焦らないで、ゆっくりと進むしかない。標高900メートルの高地をアップダウンしてゆく。たいした起伏はないものの、洗濯板を大きくしたような感じで続いている。カスティーリャ平原は文字通りの大草原だ。360度遮るものはなにもない。ごく低い丘の連続とでもいったらよいのか。とにかく山ばかりの日本の田舎の風景とはまったく異なる。なにをコセコセと生きているのかと、自然が呼びかけてくる。たしかに時間が経つのを忘れさせてくれる。

 カリオンの街は中世からの街で、古い教会も残されている。今日も泊まりはアルベルゲで7ユーロ。
 神戸の日本人青年と、カナダ人男性、それにアイルランド人男性の3人グループと同じ部屋となった。神戸の青年は彼らと途中で知り合ったというが、二人の大男にはさまれて歩いている日本の若者の姿を想像して、ほほえましい。(走行102キロ)



  霰と強風のなかレオンへ

 4月10日。 朝早くから雨が降ったり、止んだりしていたが、8時前のスタート時点では止んでくれた。雨の降り方も日本とは違うのでわかりにくい。
 猛烈な寒気。手先どころか、耳まで冷たい。暖をとるためにバーに入ろうと思うが道端のバーはすべて閉まっている。

 凍りついたので、丁度中間地点のサハグンでスープでも飲もうと思ったら、バーから飛び出てきた男がいる。2日前に峠で出会ったコロンビアからの彼女を連れているミニベロの青年だ。スープを飲みたいというと、引き返してオーダーしてくれた。そのホットチョコレートで一息つく。お返しに苺ケーキを奢ると仲良しとなり、名刺交換。さらにマドリッドのアパートにゲストルームがあるので来ないかという願ってもない招待まで話がすすむ。

 午後からは「アラレ」の攻撃だ。鼻やほっぺたが痛い、冷たい。ルートを北に転じ、まともに北北西の風を食らう。時速は10キロ前後に落ちる。北には東から西へ大山脈が横たわっており、山の頂には雪が輝き、北アルプスと南アルプスを一緒にしたような素晴らしい光景が広がる。それに青空、雲の重なりなど、なんともいえない大自然の景観が広がる。
 強風に向かってマントを翻し立ち向かう巡礼者の像のような気分だ。まさに自分が試されているような試練の日となった。

 長い、長い時間を掛けてレオンにやってきた。まるで神に導かれるようにアルベルゲに到着。黒ずくめの衣装をまとった多くの人たちに囲まれ異様な雰囲気だ。レオンのアルベルゲはイースターのパレードの出発点となっていたのだった。

 その人々の衣装に驚かされた。目だけを開けた三角頭巾をかぶった集団は、初めて遭遇したものにとって異様に映る。「セマーナ・サンタ」と呼ばれているイースターではキリストの受難を再現した御輿でパレードするのだ。いくつもの御輿が繰り出している。整然と交通整理され、群衆が両脇を固める。楽隊が荘重なマーチを奏でるなか、御輿を担いだ三角頭巾がゆっくりと左右に揺れながら、厳かに進む光景はなんともたとえようがない。日本の神輿とはまるで異なる。三角頭巾は「カプチーノ」と呼ばれることを後で知った。今夜、スペイン中の街で同じような伝統のお祭りが行われているという。(走行121キロ)



  マハリンの山小屋

 4月11日。アルベルゲの朝は早い。7時半には巡礼者はどこからともなく現れて歩き始め、8時には誰も宿に居なくなる。出発時の気温は零度。国道脇にコウノトリの巣があって2羽が子育て中。

 本格的に山にさしかかる手前に、昔からのスペインの山村集落が保存されているところを通りかかった。観光客が大勢押しかけてきている。日本で云えば馬篭か、妻籠といった感じか。伝統的な民家とその内部、そして民具も公開されており、興味深かった。

 尻と膝が痛くて、何度も何度も押し歩き。峠の少し手前で、数年前にブエノスアイレスから来た67歳が、ここで遭難した十字架が立てられている。彼はどんな思いで、サンティアゴを目指したのだろう。十字架に向かって手を合わせる。

 残雪の峠(標高1495メートル)で、またもや霰の攻撃。5時半に峠を通過。眺望の視程は約150キロほどはあるだろうか、残雪の山頂を隠して低い雲が流れている。
 峠を下ったところに「避難所」と看板があるアルベルゲが迎えてくれた。マハリンだ。旗が何本もたなびき、チベット風の小屋に見えるが、ブラジル系アルベルゲだ。電気も通っていないところで、もちろんシャワーなどはない。日本でいえば山小屋そのものだ。とても興味深いアルベルゲだ。

 ここは夕食付きでマトンのステーキ2枚にジャガイモ添え、さらにサラダまでついている。日本の山小屋よりいい。これで料金は自分で決めろというシステム。ボクは考えた末に20ユーロを支払った。本当はもうすこし払うべきだったかもしれない。
 パゴさんという男が仕切っていた。マハリンの山男というところだ。(走行、84キロ)



  最大の難所を通過

 4月12日。朝、山小屋の周りに、うっすらと雪が積もっている。ボクのヘルメットの中も雪だ。ガスも結構深く、下り基調なので路面をしっかり見て、ブレーキングも慎重に行う。こんなところで転倒は許されない。次第に手が痺れてくる。

 スタートして1時間半、緊張の時間は終わり、途中、霧氷もあった標高差800メートルを下りきる。最大の難所を通過したことになる。
 大きな街で食料品を買い込み、昼食も摂り、イースターの休日と日曜の礼拝が重なる信仰篤き人々の群衆をかき分けるように進む。

 午後4時半、予定の3キロ手前のアルベルゲに落ち着く。昨夜はシャワーが使えなかったことと、山小屋では充電ができなかったことから、現代的なアルベルゲを見つけたのだった。
 料金は8ユーロとしっかり請求された。純民間のもので、レストランとホステルも兼ねているが、素泊まりアルベルゲだとこの値段。約1000円程度でシャワーとトイレ付きの2段ベッド2組の4人部屋を独占する。夕食は生ハムとソーメン入りトマトスープ。次第に疲れて来ており、特に登りのスタミナが持続できなくなってきている。(走行、64キロ)



  谷底の村々の春

 4月13日。朝、7時から8時ごろ、巡礼者たちはどこからなくとも現れる。アルベルゲが至る所にあるのだ。
 長い長い登りを15キロを走って、標高1082メートルに到達。ここがガリシア地方の入口。最初の村ペドラフィッタ村(1115メートル)を通過。ここの巡礼者の銅像の顔に強い意志を感じる。三角関係の鳥たちがギイギイ鳴いて雌を争っている。

 1306メートルのセブレイロ峠に到着。12時、さらにポイオ峠1335メートルを越える。
 このポイオ峠から徐々に下りはじめる。峠はずっと霧のなかだった。ヘルメットから水滴がしたたり、メガネにも霧の水滴が付着する。その霧もようやく1200メートルで晴れ、その後、一路大降下となる。道幅が広く気を遣う必要もないが、道路が付け替えられていて、ルートとすこし異なることにとまどう。でもガイド標識が完備しているので安心。クルマはごくたまに出会うのみ。

 山々に囲まれたお盆の底に吸い込まれる感じで、寒さ以外は最高の瞬間だ。淡い紫色の花をつけた灌木で覆われた山肌が美しい。
 標高600メートルの谷底の村々のなんという美しさ。高く細い木々に新芽がいっぱいついて、牛たちが草をはんでいる。サンクリストゴ村がその名だ。

 スペインにやってきてイースターの意味がわかってきた。それは長く厳しい冬が終わり、生命力に満ちた春を迎える人々の喜びを込めた祭りなのだ。スペインの野山を走り続けていて、そのことを強く感じる。
 山のなかに忽然と現れたモステイロサモス教会。カソリックの権力と威厳を感じさせ、あまり好感が持てない。

 大きな街サリアに入る。ここのアルベルゲも簡単に見つかる。黄色い矢印が目印だ。料金はわずか3ユーロ。このほか丘の上には数カ所のアルベルゲが散在している。
 ここで気仙沼のTさん(72)と同宿。今回4年越しの3回目の巡礼路歩きで、1日約20キロ程度歩くが、とても疲れるという。目的は自然や歴史的建造物を見ること、それに人々との触れあいという。ボクと同じだ。
 食後の散歩でふと迷い込んだ教会では敬虔な祈りが捧げられていた。カソリックは現実に人々の生活の一部なのだ。(走行、69キロ)



  腹ペコサイクリスト

 4月14日。先に出られたTさんに追いつく。彼の出立ちは、小さなコマ付きの旅行鞄にザックを括りつけ、それを引っぱっている。引く手が疲れるだろうと心配する。巡礼路を引くにしても、もう少し大きな車輪の方が楽だと思うが、ここは空港のロビーじゃないから、ダートはさぞかし大変だろうと推測する。でも、そうまでしても彼は、どうしても今回はサイチャゴ・デ・コンポステラに行きたいという。この彼を惹きつけているものは何か。夕べの彼の話しぶりは表面だけのものと思う。

 親子3人連れの母親があぐらをかいてマメの手入れをしている。思わず笑ってしまった。向こうも笑っている。春の日の昼下がりの光景だ。
 途中で、出会ったMTBのサイクリストはブレーキシューがほとんどなくなり、いわばメンテ不良でやって来たようだ。ブレーキの片効き調整に苦労している。

 声を掛けたら、何か食べたかと聞くので、腹が減っているのかと云うと、そうだというので、ビスケットとチョコバーの差し入れをした。こちらは自転車のトラブルもなく、食い物の余裕もあるので、困った時はお互い様だ。シャクナゲや水仙も咲いている。

 早めにパラス・デ・ルイの街に着く。ここのアルベルゲもリニューアルオープンのようだ。ただし、すこし高めで9ユーロ。
 このアルベルゲで出会った人たち、コスタリカからの30歳位の女性、ニュージーランドからの40歳位の女性。何れも一人旅だ。ニュージーランド女性は目的は宗教ではないとはっきり云った。サイクリストではバスクからのカップルが明日はいよいよゴールだと喜んでいる。スペインと云わずバスクを名乗ったのには誇りがあるのだろう。(走行、53キロ)



  「コングラチュレーション」

 4月15日。今日は曇りぎみなので、寒い。標高の高いところを除けば巡礼路は常に500メートルから800メートルのところをアップダウンしながら続いているのだが、気温は晴の場合で高くて20度まで。曇りだと数度という日もある。朝のうちは大概、零度か少し上といった感じで、常にフリースの長袖と防寒と防風を兼ねたカッパを着ていたし、特に気温が低いときは2重手袋で走っていた。

 午後2時40分。4月5日にサン・ジャン・ピエド・ポーを発って以来11日目にしてサンティアゴに到着した。予定より若干早い。
 さすがにカソリックの三大聖地だけあって、カテドラルは壮大なものだ。熱心な信者なら感激するだろう。カテドラル前の石畳の広場では、サンティアゴ到着を祝ってグループ毎に歓声が上がっている。なかには日本流に両手を挙げて万歳をするサイクリストもいる。彼らと、その後バーで出会ったが、ボクとほぼ同じ距離を9日間でやってきたという。もしかしたらフランス人の道ではなく、北ルートかもしれない。聞き漏らした。

 巡礼者たちはカテドラルのとある一角へと向かっている。巡礼証明書を受け取るためだ。迷わず、ボクも従う。入口に手を差し出す女性がいる。巡礼中に足を怪我したので病院に行きたいというが、近寄るとアルコールのにおいがした。でも、こちらは無事にやり遂げたのだからと気持ちが大きくなっている。すこし恵んだ。

 内部はカウンターに数人の職員がならんでいて、コンピュータの端末もあり、まるで税関のような雰囲気だ。
 ここで巡礼手帳クレデンシャルを差し出す。女性職員は簡単な質問をして英語でコングラチュレーションと云ってくれた。ボクはとても酷い天候で大変でしたと答える。巡礼目的も尋ねられたので無宗教と答える。統計をとっているようだ。そしてクレデンシャルに最後のスタンプを押してくれ、別にボクのローマ字名入りの巡礼証明書を発行してくれた。最後に受付の女性から、明日の正午のミサであなたの名前と国名も紹介されますと告げられた。
 ボクはカソリック信者ではないから、それは望むものではないが、時間がゆるせばその場に立ち会いたい気もする。しかし明日は、サンティアゴを離れなければならない。(走行、72キロ)



  「そこに巡礼路があるから」

 後半の旅は、サンティアゴ・デ・コンポステラからポルトガルに入り、北部ポルトガルのポルトワイン地帯を走ってから、ポルト、リスボンへ、さらに再びスペイン入りしてセビーリャ、トレド、マドリッドへと続く。

 旅先でボクが願っていた現地の人びととの交流も、巡礼路をスタートする前の2日間、アイルランド周遊の旅で知り合ったオランダ人サイクリストの南フランスの自宅に招かれ楽しいひとときをすごしたし、ポルトガル北部のビアナ・ド・カステロという町でも国際交流組織サーバスのホストである弁護士宅にやっかいになり、ポルトワインの品定めや、楽しみ方を教わった。またマドリッドでは巡礼路の途中で知り合った青年弁護士のアパートに2泊させてもらい、マドリッド散策もさせてもらうことができたなど、いろんな出合いもあるが、これらについては省略したい。

 冒頭にも紹介したように、ボクはイギリス人サイクリストのガイドブック「THE WAY OF ST JAMES CYCLISTS' GUIDE」を参考にルートを組んだし、またインターネットからあるサイクリストが巡礼路を走行したGPSトラックファイルを入手して使わせて貰った。この2つの走行ルートは、ほぼ重なっていて、走行中、途方にくれるような場面は一度もなかった。そして巡礼路の延べ走行距離は872キロとなった。

 もちろんボクは自転車で巡礼路に沿って走ったのだが、主役はあくまで徒歩巡礼者である。彼らは足に故障が生じても、ひたすら歩く。沿道の農民や町の住民は彼らを励まし、支える。ハイシーズンともなれば、早着きの自転車は仮にアルベルゲのベッドが空いていても待たされるという。あくまで徒歩による巡礼者が優先なのだ。

 出発前のボクの疑問・・・「人びとは何故、困難な徒歩による旅に惹かれるのか」・・・この答えを得るのは難しい。何故なら、それは巡礼者によってそれぞれ歩く理由が異なるからだ。ある巡礼者は恋人とハイキングのような感覚で、またある者は敬虔なカソリックの信者として聖地を目指していたからだ。強いて云えば、その答えは「そこに巡礼路があるから」という月並みな答えが最もふさわしいように感じた。

 ヨーロッパを中心に11〜12世紀から多くの巡礼者がサンティアゴに向かったという重厚な歴史が刻まれ、同時にアルベルゲという彼らを受け入れる文化が築かれていった。長期の徒歩旅行者にとって、このような特別の環境が存在する世界は、ボクは他に知らない。そうしたことも含め、巡礼路自体が世界遺産として存在しているわけで、多くの巡礼者を惹きつけている。だから「巡礼路があるから人びとが歩くためにやってくる」というのが、ボクの結論だ。自転車のボクはそれらを垣間見させてもらったのだった。

 スペインの夏のサイクリングは耐え難いと思い4月にしたのだが、晩秋か初冬のサイクリングとなってしまった。ベストは5月か6月がよさそうだ。(了)



(この紀行文はボクが旅先で「がたがた道の自転車走行でも壊れない」とHDDより290倍も衝撃性に強いといわれる、SSDミニPCで綴った旅日記から抜粋、加筆した。)


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