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   ベオグラード

 2011年6月2日。ボクはセルビアのベオグラード国際空港に降り立った。昨年のツアーの際も同行してくれたビエラという女性ガイドが出迎えてくれた。
 最近の航空機の中型化で、20人近いグループ客の自転車の積載は拒否され、「第19次シルクロード歴史探訪隊」のメンバーはレンタル自転車での旧ユーゴ探訪ことを余儀なくされた。
 ボク自身は後半の自転車一人旅を控えているので、別便で使い古した旅行用の「ランドナー」とともに彼らと合流した。




 ベオグラードは昨年の「第18次シルクロード歴史探訪隊」がゴールした街で、セルビアの首都だ。昨年に続き、この街のベオグラード大学「日本語・日本文化学部」で学ぶ学生達と交流。彼らに日本から持ち込んだ日本語の書籍をプレゼントして、東日本大震災と原発事故、その後の復興の様子などを語りあった。
 日本から遠く離れたバルカン半島の学生達は、日本の災害被害に心を痛め、街頭にでて我々と一緒に日本の現状を伝える取り組みに参加してくれた。
 ベオグラードの中心部で行われていたイベントでは、白い牛の腹部に日の丸を描き、「日本への期待」と記されていた。被災国日本へのエールだ。
 ベオグラードで2日間を過ごした我々は、6月5日から10日間、ベオグラード郊外の村からボスニア・ヘルチェゴビナとクロアチア国境までの約850キロを17人で走った。


  バルカンの暮らし

 セルビアなどバルカン半島の国々は旧ユーゴースラビア解体とその後の民族紛争で経済は疲弊し、主たる産業は農業だ。その農業も家族経営がほとんどで、作付けは麦、トウモロコシのほか、食用油を採る菜種、ヒマワリなどだが、規模は家族が総出で作業できるほどのもので、実際、刈り取った牧草を天日で乾燥させる家族総出の作業や、トウモロコシ畑を耕すのに自転車の前半分に鋤を溶接した自作の道具で耕している光景も見られた。



 乾燥させた牧草は長い杭に絡ませて積み上げる伝統的なやりかたで野積みされ、ストークと呼ばれている。そのこんもりと盛り上がったストークが単調な畑にアクセントを与えていて楽しい風景だ。



 農家は主に三輪トラクタに農具や収穫物を積んで移動しており、なかには馬車がいまだに現役という光景も見られた。
 村々には雑貨屋と食品店が一つになった店があり、たいてい男たちがビールを飲みながら歓談していたし、ボクらもその店でアイスキャンデーやコーラを買って休憩したりした。
 こうした店すらないところには、マイクロバスのような移動販売車が巡回してきた。セルビアの田舎を走っていると、時たま民家の門構えにリボンなどで美しく飾り立てた家を見かけることがある。最近婚礼があった家で、こうした伝統も息づいている。



 自転車隊はドナウ川支流のドリナ川に沿って走る。対岸はボスニア・ヘルチェゴビナだ。云われてみないとドリナ川が国境だとは気づかない。濃い緑の川面にクリーム色の民家の壁が映えて美しい。
 豊富なドリナ川の水を利用したダムと発電所(写真上左)では「ボクが東京で設計・管理した」という某社を退職して参加したMさんが、はじめて発電所と出会うという場面もあった。
 国境を流れるドリナ川は何世紀にもわたって繰り広げられてきた人間の歴史を秘めている。その象徴ともいうべき「ドリナの橋」を訪れる。世界遺産でもあるこの橋はドリナ川上流の街ヴィシェグラードに実在し、この橋を建設したトルコ宰相の名前で「メフメット・パシャ・ソコロビッチ橋」(写真下左)と呼ばれている。11の美しいアーチを持つ長さ180メートルの橋はノーベル賞作家イボォ・アンドリッチの歴史小説の舞台で、小説は16世紀の建設から第1次大戦までの民族間のあつれきや交流を、この橋を中心に描いている長編だ。この地域に焦点をあてて描かれた、いわばバルカン半島の近代史をむさぼり読んだ記憶がよみがえる。現実に目を向けると、この橋はボスニア紛争でも虐殺の舞台となったというから、「ドリナの橋」は書かれることのなかった物語として今も続いている。


  ボスニア紛争の傷跡

 ボスニア紛争はもちろん「ドリナの橋」だけが舞台ではない。
 19年前にバルカン半島で起きたこの戦争は、1992年のボスニア・ヘルツェゴビナの独立をきっかけに同国内で住み分けてきた民族間の紛争に発展。3年半以上にわたった紛争で死者20万、難民・避難民200万が発生した。セルビア人、クロアチア人など各民族が支配する地域から、他民族を排斥する「民族浄化」(大量虐殺)で、略奪、見せしめ殺人、強姦、強制収容などが行われ、ボスニアのセルビア人を支持する隣国セルビアやNATOも介入する戦争となった。




 ボクらが、ベオグラードに到着した頃、メインストリートのキオスクには5月末に拘束された民族浄化を指揮したとされるセルビア人武装勢力司令官ムラジッチ戦犯を扱った現地のグラフ雑誌が平積み。またベオグラードでは、このセルビア側の”支援”を阻止するためにNATOが行ったセルビア軍司令部へのピンポイント空爆跡(写真下左)がそのままになっていた。

 ベオグラードを離れて美しいドリナ川を遡上する途中の街では紛争当時の銃撃戦の弾痕が残されていたり、逮捕されたムラジッチ戦犯を逆に「セルビアの英雄」と称えるポスターが張られていたりして、戦争の傷跡が人々の心と街の光景から完全に消えていなかった。

 ボスニア・ヘルチェゴビナのモスタル市内でも、所々に紛争当時の銃撃戦の跡が残されている。モスタル市内を流れるネレトバ川に架かる美しい石橋、ネレトバ橋(写真上左)は急流に向かって飛び込む伝統的なスポーツで有名だが、紛争でこの橋も破壊され、再建されて再び飛び込めるようになったのは最近のことだ。



 クロアチアとの国境に並行するように走りながらセルビアの言語キリル文字が消されている案内標識の脇を通り、ボスニア・ヘルチェゴビナの北西部近くまでやって来た。ツルニ・ウグ村はどこにでもある小さな村だが、人が住んでいる気配がない。壁に機関銃の弾痕跡や、炎上してコンクリ壁だけが残った農家が散在している。紛争時にセルビア系住民をボスニア・ヘルチェゴビナから排斥するため、彼らの家を焼き払い「難民」を作りだしたのだ。村の近くの数カ所には、いまも「地雷注意」の看板が立っていた。パステルカラーの草原の地中には地雷がいまだに埋まっている。


 休養日にバスで20キロ離れたクロアチアのドブロクニクに行く。「アドリア海の真珠」と呼ばれおり、日本人も年間16万人も訪れる人気の観光スポットで、快晴の碧い海と城壁に囲まれた旧市街のレンガ色の家々が密集した風景は、絵ハガキそのものだ。
 しかし、ここも戦争の過去を抱えていた。クロアチアは第2次世界大戦後に、いち早くユーゴ連邦から独立。そのためドブロクニクは空と海から旧ユーゴー軍の激しい攻撃を受けた。




 地元ガイドがその説明をするため、当時のメモリアル会場で映像で破壊されたドブロクニクの惨状(写真右)を説明し始めたところ、ボクらのガイドのビエラは、突然顔を覆い泣き出してしまった。無理もない。セルビア人の彼女の属する2万人の旧ユーゴ軍が、わずか700人が抵抗する美しいドブロクニクを破壊したからだ。今から20年前、ビエラがまだ10歳の少女だったころの出来事だ。

 戦後66年。日本では戦争を知らない世代が人口の75%を越えた。この世代が戦争の悲惨さを追体験できるところは、広島や沖縄など日本にもあるが、20年前に起きた外国の戦争の傷跡を訪れることで、戦争の悲惨さや平和の尊さについて考えることもできる。

  首都ザグレブ

 ルートはボスニア・ヘルチェゴビナを北上しクロアチアに向かったが、スタッフはアドリア海の海岸部は、交通事情が悪くサイクリングを奨めなかったし、クロアチアの首都ザグレブ近郊も同じ理由で走ることを断念。ダルマチア地方と呼ばれるアドリア海に面したクロアチア沿岸部を走りたかったが、あきらめざるを得なかった。ダルマチア地方は日本の蚊取り線香の原料の除虫菊の原産地なのだが、その群落を見ることはできなかった。

 そういうわけで、クロアチアをまったく自転車で走ることなく、ザグレブにゴールしてしまった。クロアチアの首都ザグレブは北側の山と南側のサバ川との間の、広い平原に広がっている。
 13世紀からの旧市街を囲むように新しい街が拡大を続けており、まもなく独立20年を迎えようとしているクロアチアの経済的繁栄を目の当たりにした。




 ここでは、セルビアやボスニアよりも市民の生活水準が高いことを示すように、比較的新しいクルマが至るところにひしめき、歩道をふさぐ駐車は当たり前(写真下右)で、歩行者を悩ませている。シティーセンター周辺のイェラチッチ広場や聖母被昇天大聖堂などの歴史的建造物、青空市場などを見てまわった。新鮮野菜が山積みされ活気があった。

  世界自然遺産プリトヴィッツェ国立公園

 6月17日。ザグレブでのフリータイムを利用して約100キロ南の世界自然遺産(1979年登録)、プリトヴィッツェ国立公園を訪ねた。
 プリトヴィッツェ国立公園は世界的なカルストの代表的な存在で、石灰岩を浸食しながら、トラバーチンと呼ばれている浸食作用…湖沼、滝、渓流が一体なって形成される様は壮観で、モミブナ原生林や161種の鳥など植物・動物相も豊かで、生態系の頂点にはヒグマが存在する。


 ちなみに石灰岩のカルスト地形の由来はザグレブから西へ100キロのスロベニアのクラス地方(ドイツ語でカルスト)に語源がある
 透明度抜群の湖面には、カモやマス科の魚が群遊し、信じがたい自然環境が保全されている。国立公園は広大で、湖水を渡る連絡船やバスも整備され、効率よく自然が作り出した造形を堪能できた。(第1ステージ終わり)



  ハンガリー文化と暮らし

 帰国するメンバーと別れ、ザグレブからハンガリーを目指す。一人旅は自由だ。グループ走行ができないような交通が激しい市街地でも問題なく走ることができる。
 北東方向にハンドルをとれば、クロアチア国内を約100キロほど走ってハンガリー国境に至る。道端では早朝からブタの丸焼きをしていたり、正装して教会に通う人たちと出会ったりする。
 ハンガリー国境では入国スタンプが押されただけで、あっけない。道端の風景は民家の様式もかわり、次第にハンガリーらしさを帯びてくる。



 ハンガリーも農業国だが、大規模農業のなかに時たま小規模の農地が見られる。大規模農地では、トラクタがうなりをあげて麦刈りをしている。セルビアやボスニアと異なり、牧草刈りも機械化されている。単に機械化が進んでいるだけでなく、協同化しているのだ。
 雨のなか、中央ヨーロッパ随一のバラトン湖の西端に到着する。ここから2日かけてその北岸を走る。バラトン湖はハンガリーの人々の夏の避暑地だ。湖岸にはサイクリング道路が発達していて、サイクリストだけでなく、レンタルサイクリングを楽しむ滞在者のグループも多い。粘土が溶けた湖水はやや白濁しているが、人々はヨットや釣りなど思い思いの方法で夏を楽しんでいる。


  ブダペスト

 ザグレブから460キロ走ってブダペストに着いた。ベオグラードでドナウ川に出会い、その支流を走り、18日ぶりにドナウの上流に到達したわけだ。川幅は300メートル。
 ブダペストは「ドナウの真珠」と呼ばれ、ドナウ川抜きに語れない。特にドナウ川とブダ地区は一体として世界遺産でもある。




 最高気温39度の酷暑のなか、ブダの丘に登り、木の間からドナウの両岸ブダ地区とペスト地区を俯瞰する。
 ドナウによって形成された美しい地形、川に架かる多くの橋や川岸に林立する建物が独特の景観を醸し出している。なかでも圧巻はブダ側の王宮(写真下左)やペスト側の世界遺産の国会議事堂(写真上右)だ。トルコ様式の入浴施設も人気だ(写真下右)。


 ブダペストは主要民族であるマジャル人によって拓かれたが、昔からオスマン帝国などの侵略を受けてきた。最近も、第二次世界大戦中のドイツ軍による占領、そしてナチスによるユダヤ人20万人の虐殺、その後のソ連軍の占領と共産化と、さまざまな試練をくぐり抜けてきた歴史をもっているが、その逐一を訪れるには時間が足りない。一般市民が暮らす古いアパートメントで2泊したり、国際草の根交流組織「サーバス」のメンバー宅に転がりこんで、なるべく市民の生活に接するよう努めた。メンバーの女性と交流していて、彼女がブダペストの自転車交通対策に関わっていて、サイクリングルート開発を手がけていることがわかった。

  ドナウ流域

 ドナウ川はブダペストを過ぎてセンテンドレ、ビシェグラードへと遡り、エステルゴムで大きく西へ流れを変えている。このあたりはドナウベントと呼ばれ、ドナウのなかでもひときわ美しい。
 この美しいドナウを岸辺から愛でることにして、川岸のサイクリング道路を走った。サイクリング道路はドナウの岸辺の林や森を抜けて続いている。ボート遊びや水遊び、キャンプを楽しむ人たちの傍を進んで行く。時たまサイクリストとすれ違う。ドイツ方面からドナウ川を下ってくる連中だ。サイクリング道路の標識にはEUマークがついている。
 ビシェグラードあたりからは、エステルゴムに向かうクルーズ船に自転車ごと乗船した。



 岸辺から見た風景が、今度はドナウの流れの真ん中から見る風景に変わる。山の上の要塞、岸辺の小屋、遠くのサイクリストなどの風景を楽しんでエステルゴムの大聖堂(写真下右)に迎えられた。

 翌日はエステルゴムから一旦スロバキア側に陸路で入り、ヒマワリ畑の中を走りつつ、またドナウの橋を渡ってハンガリーへ。ドナウは西に向きを変えている。道は平坦なデルタ地帯に入り、森や牧草地を進む。ジェールの街は小さいながらもドナウデルタのなかに自立した立派な街だった。



 この街では造船で使うロボットのセールスをしているビラさんのマンションに2泊させてもらった。ここでジプシーダンスのショーや、カソリックのまつりの王様御輿行列を見たり、ドナウの巨大魚のスープを楽しんだりした。

 ジェールからは進路を北西に取り、スロバキアの首都ブラティスラバを目指す。ブラティスラバ郊外からは良く整備されたサイクリング道路を走ったが、その先にはブラティスラバ城(写真下左)が輝き、大統領府では美しい儀礼兵が直立不動で立っていた。ブラティスラバからウィーンへは、時速50キロを出す高速艇で向かった。

 ウィーン

 ウィーンに到着する手前には巨大なドナウ川の堰があり、高さ8メートルの堰を越えなければならない。高速艇は「閘門」と呼ばれる空間に入り、背後の水門を閉めてドナウの水を入れる。徐々に水面が迫り上がり、同じ高さとなったところで前方の水門が下がり高速艇は動き出す。
 そして瞬く間に高速艇はウィーンに到着。そのままウィーン市内に自転車を乗り入れたが、かなりの範囲で自転車専用道が整備されていた。


 ウィーンには6年前にドナウ川に沿ってドイツから下って来たことがある。そのときは「ウィーンの森」の雰囲気を楽しんだのだが、今回はウィーンフィルの演奏で「フィガロの結婚」などオペラ歌手の独唱や、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、交響曲40番第1楽章など、モーツアルトの定番を楽しんだ。



 ウィーン滞在は、市内中心部に近い一般市民のアパートにお世話になった。主は、直径1.5メートルの大きな太陽熱ヒーターを庭に持ち出し、湯を沸かしたり、料理をこしらえてくれた。太陽熱ヒーターはドイツ製で、使っている市民はほとんどいないというエコロジストでもある。
 奥さんのエレノワからは、東日本大震災のことをいろいろと聞かれた。ボクは日本が科学技術のみを信じて自然の力を侮ってきた結果ですと答え、でも国民は復興を目指して頑張っていますと付け加えた。


  ツベンテンドルフ封印原発

 3月11日、東日本は1000年以上も経験したことのない巨大地震と津波に襲われ、福島第一原発は津波でコントロールを失いメルトダウン。世界が注目した。
 今回の自転車旅の出発間際に、某紙がオーストリアの封印原発のことを取り上げた。たまたま、ウィーン市民の家に滞在していたボクは、日本の未曾有の地震と津波体験の話をして、オーストリアの封印原発のことを取り上げた新聞記事を示し、できたらこの場所に立ちたいと申し出た。
 環境問題に積極的なウィーン市民のジョセフは、自転車で一緒に行こうと提案してくれ、7月1日にウィーンの西30キロのドナウ川畔に立つツベンテンドルフ原発に向かった。鉄道で途中駅まで行き、自転車でドナウ川沿いに走ると、やがてドナウ川畔の森に囲まれたツベンテンドルフ原発が見えてきた。
 原発は水際から100メートルほどセットバックしているものの、一旦コントロールが失われれば、ドナウ川の放射能汚染は明らかで、下流のウィーン市民への深刻な影響は避けられないと思われた。




 建屋のそばの看板には、7万5000kwの発電能力を持つ原発として1978年に建設されたが、同年11月の国民投票で賛成157万6838人、反対160万6308人となった結果、原発は運転されないまま今日に至っているとある。
 この国初の原発として政府主導で建設されながら、反対世論に押されるかたちで運転開始直前の国民投票で、運転の停止を決めたのだ。日本でも、新潟県巻町原発を巡って初の住民投票で建設計画を断念に追い込んだ経験(1996年)や、巻町以外でも25の地域で自治体議会の反対などで原発建設を断念させた多くの経験はあるが、国民投票で原発の可否が問われたことはない。この国の民主主義の成熟を感じる。


 原発建屋には、その外壁に取り付けられた太陽光パネルによる発電量が電光掲示板(写真右)で示されている。核燃料の代わりに太陽光で発電している「原発」なのだ。その発電量はわずか16.5kw/hだったが、原発から自然エネルギーへという「フクシマ」を契機とした世界的な変革の流れの象徴のように感じられた。実際に「フクシマ」以降、この国の市民の関心も高まり、日本人を含む見学者も増えているという。

  グリーンウェイ

 ウィーンからチェコのプラハに行くために、この区間470キロを結ぶ「グリーンウェイ」と呼ばれている道路を走ることにした。
 「グリーンウェイ」は文字通り、村や農地、そして丘陵地帯を抜けて作られている。特にサイクリング専用道路というわけではなく、ハイキングもOKで、日本的な表現で云えば、中山道などの旧街道を繋いだ「自然歩道」に似た道だ。自転車・歩行者専用ではないので、田舎道を走る地元のクルマにも出会うし、牧草地のなかを行くこともある。
 初日は、このグリーンウェイを120キロ走り、ヴァルチツェの街に到着した。ここはもうチェコ共和国だ。どこで国境を越えたのかも定かでない。




 ヴァルチツェには世界遺産の美しいレドニツェの居城とワインセラーが数多くあり、ワインの故郷のような街だった。
 ゆるやかな丘には無数の発電風車がかなり強い風を受けながらシューシューと回転している、その下を走ったこともあった。
 この道を導くのは、所々に立てられたユーロベロの標識だ。ユーロベロはヨーロッパの長距離サイクリングルートのことで、現在11ルートがヨーロッパ各地を結んでいる。
 グリーンウェイでは、時たま面白いオブジェが見られる。コウノトリのオブジェがサイクリストを和ませてくれた。
 標高400メートルの高原には、ケシの花の原っぱが見渡すかぎり広がり、道路に沿って3キロ以上も続いている。ケシはケーキの材料か。




 高原から急坂を下ると、眼下にヴラノフ・ナトディイーの街が現れた。断崖の上に僧院が建ち、曲がりくねった川沿いに、街並みがこじんまりと庇を並べている。ホテルでは、まったく英語が通じない。
 道すがら、いろんな街路樹と出合う。クルミ、スモモの類など果樹も多いが、代表格はサクランボだ。鈴なりのサクランボはサイクリストがときたま摘む程度。やや酸味がする赤いサクランボと、黒くて甘いのと、どちらも食べ放題。
 絶滅危惧種のバイソンを繁殖させている”牧場”を通りかかった。数十頭のバイソンがバリバリと音をたてて草を食んでいる。頭をほとんど上げないで前に移動するさまは、大型芝刈り機のようであり、迫力満点だ。


 標高500〜700メートルの台地の深い森を抜ける、登り坂で異音がしてギアワイアーが切れてしまった。重いギアでヨタヨタと登り、思案していたらチェコのサイクリスト集団が休憩していたので、ワイアのスペアを持っていませんかと声を掛けたら、一人がワイアを張り替えてくれた。
 ルートは地域の名所や文化財を巡ることができるよう配慮されているので、ルート通りに辿れば、かなりの迂回も強いられるから、ことさら忠実に辿ることはしなかったが、4日間にわたりチェコの田舎の風景を堪能した。平原の向こうにプラハが浮かび上がってきた。


  首都プラハからプルゼニュへ

 標高480メートルの高みからプラハ中心部まで14キロの長い坂を下り、滑るように街に近づいてゆく。自転車旅ならではの醍醐味だ。
 いよいよプラハである。この旅の目的の一つ、ヨーロッパで最も美しい街と云われているプラハを訪れることができた。快晴のもと午後3時にヴァルタバ川(別名モルダウ川)に架かるカレル橋(写真下右)に到着。

 プラハでお世話になるホスト、ジョージとリダには昨年、東京で会っている。プラハを案内するから是非いらっしゃいと歓迎してくれた。彼らが4日間提供してくれるスペースに驚いた。その場所は有名なカレル橋と、プラハのシンボル、プラハ城の中間にあり、どちらにも徒歩数分で行くことができる。
 その16世紀のアパートの2LDKをキッチンも含めて自由に使ってと、キーを渡された。
 彼ら夫婦は、近くの別のマンションで暮らしているからと、ボクにとっては4日間のプラハ観光の拠点として気兼ねなく使えるホテルのような存在となった。部屋の前を時折、トラムが滑って行く。




 この街はヴァルタバ川を挟んでごく狭いエリアに、中世以来の様々な石造建築物が美しさを競っている、「ヨーロッパ随一の美しい街」で、百塔の街とも呼ばれているように、主に教会を中心に、石造の塔が美しさと高さを競っている。リダの仕事はこうした美しい旧市街の景観を保つために建築物の修復に際して、市民からの申請に彩色の変更など条件をつけて許可を与える市の重要な業務で、これにより旧市街の景観が守られているという。


 ゴシック、ルネッサンス、バロックのそれぞれの時代に建てられた石造建築が取り囲む「旧市街広場」と呼ばれている広場の真ん中に大きなヤン・フスの像がある。
 15世紀、カレル大学の学長だった彼はローマ教会の堕落を批判して、火あぶりの刑に処せられるが、彼はチェコ国民から慕われ、宗教改革のリーダーとしてチェコの宗教を変革した。チェコでは、それを記念して、7月5日を宗教記念日、その翌日をヤン・フスを偲ぶ日として国民の休日となっている。ボクがプラハに到着した日がまさにその日で、ショップも会社も休みだった。ヤン・フスは宗教を越えて、チェコの人々から慕われている存在なのだ。


 カレル橋の下流の橋の袂に四角い形の建物(写真上右)があり、王冠を模した金色の飾りが屋上にある。国民劇場だ。この存在もユニークで、かつてドイツ支配下にあった時代、チェコ語が禁止されたことを契機に「チェコ語によるチェコ人のための舞台」をと呼びかけ建設された劇場で、チェコ文化のシンボル的存在だ。

 

 ある日の夕方、ジョージが市内南部にあるヴィシェフラード公園に誘ってくれた。トラムと地下鉄を乗り継いで、プラハの7世紀の旧城があった緑の公園を巡る。長く続く城壁から、夕暮れの旧市街を見たり、眼下のヴァルタバ川の光景を楽しんだ。公園内の聖マルティン教会の墓地には、作曲家のドボルザークとスメタナも眠っている。ここはスメタナが交響曲「我が祖国」の第1楽章「ヴィシェフラード」を作曲した場所で、ヴァルタバ川の美しい流れが夕陽に映えていた。


 プラハ城にも登った。城の高みからは百塔の街が見下ろせる。城内は広く、一巡するのに3時間ほどかかった。9世紀頃から城の建築が始まったが、ゴシック、ルネッサンス、バロックと時代を追って拡張されたり、他国の支配の拠点となるなどの歴史を秘めている。城内には教会や修道院、国立美術館、王宮美術館などが建ち並び、その幾つかを訪れた。面白かったのは、王妃の部屋には便器と一緒に祈りのための祭壇が設けられていたり、王族たちの放蕩で怠惰な生活を表す露骨な絵が展示されていたことなどだ。

 新市街につながるヴァーツラフ広場はチェコが1968年のソ連軍戦車による蹂躙と、その後1989年の「ビロード革命」を成し遂げたチェコ民主化の記念すべき場所でもある。長さ700メートルの広場には観光客が溢れている。この広場が当時、100万人の市民で埋め尽くされた。街のショップにはソ連戦車をあしらったTシャツも並んでいて、観光に一役買っている。

 夜はチェコの国民的芸術の一つ、操り人形劇を鑑賞した。人形劇といっても日本の文楽と同様、れっきとした大人向けで、演目は「ドンジョバンニ」。操り人形劇向けに愉快で楽しいドンジョバンニの放蕩物語に仕立ててある。文楽のように口は動かないが、手足の動きがダイナミックだ。文楽の繊細な感情表現とは対照的でドタバタと少々荒っぽい動きが特徴だ。コミカルな操り師の手の表現も演出の一部となる。

 アパートに戻るとジョージからの置き手紙が机に置かれていた。リダの両親に会いに行くので、もう会えないがプラハを楽しんで、とある。
 ボクは、2日前の夕方、ジョージと歩いたヴィシェフラード公園から見た夕暮のヴァルタバ川の光景が印象に残っていたので、「スメタナの交響曲『我が祖国』の第1楽章『ヴィシェフラード』の旋律を心に描いています。東京で再会しましょう」と書き残した。


 ジョージとリダのアパートを後に、チェコを走る最後のルート、プルゼニュを目指す。途中で14世紀に築城されたカルルシュテイン城(写真上左)に迂回し、小高い山の上に聳える山城の上を白い雲が流れるさまを飽きずに眺めた。
 旅のゴール、プルゼニュ(ピルゼンはドイツ名)まで緩やかな丘のアップダウンが続く。




 プルゼニュは大きな街で、旧市街の中心に大聖堂がある。チェコのクルマ「シコダ」の本社があったりして経済活動も盛んだが、もっとも有名なのはピルスナービールで、現在50カ国以上に輸出している。
 ビールの名はこの街の名が由来で700年前から作られている。ビールに目のないボクとしては、なにを差しおいても「ピルスナー・ウルケル」を生産しているプルゼニュスキー・プラズドロイ醸造所(写真下左)を訪れなければならない。自転車は醸造所の門をくぐった。
 広大な醸造所では、とてつもなく広い瓶詰工程の最新式設備の様子や、低温で時間をかけてビールを発酵させる地下室での、伝統的手法によるビール作りを見学した。直径2メートル以上もある樫樽から直接取り出し試飲させてくれた(写真上右)が、ピルスナー・ウルケルの格別の味を楽しむには寒すぎた。

 

 7月11日。朝、この街を離れる前に、古いユダヤ教会シナゴーグに立ち寄った。プルジェニュでもナチスによるユダヤ人狩りがあり、そのためこの街のユダヤ人たちは絶滅したというのだ。シナゴーグは訪れる人もなく、忘れ去られた存在のように見えた。壁も剥げ落ちたシナゴーグの裏手に回ると、四方を壁に囲まれたスペースのなかに、無数のこぶし大の石が並べられでいる。その石の一つひとつには、犠牲となったユダヤ市民の名前と生年月日が記されている。「消えた人々の碑」として、未来に伝えようとしているかに見えるが、現実は訪れる人もなく、静まりかえっていた。

  ルツェルンの風景

 プルジェニュ中央駅から国際列車でドイツを経由してチューリッヒに向かう。
 風景はさほど変わらないが、家々や農場の屋根に太陽光パネルが目立つようになる。自然エネルギーを普及させるため、ドイツ政府が電力買い上げ補助制度を打ち出しているからだろう。それでも、見たところ普及率は数パーセント程度だ。

 ミュンヘンから乗り換えたドイツの列車は、南ドイツのリゾート地帯を抜けてスイスに入る。少しずつ山国らしい風景となり、スイスアルプスの前衛峰も時折姿を見せるなか、定刻通りにチューリッヒ着。

 

 翌日、帰国までの時間を過ごすため列車でルツェルンへ。スイス中央部のルツェルンは、美しいルツェルン湖が、その奥に連なるアルプスの山々に囲まれている。湖から流れ出すロイス川のカペル橋は絵ハガキのようだ。
 湖水に沿って30キロほどポタリングしたが、どこからでもピラタス山が迫ってくる。高みに登れば、遥か遠くに残雪のメンヒ(4099メートル)や、アイガー(3970メートル)も見える。
 快晴で暑かったので、透明なルツェルン湖で泳いだ。水温は20度ほどで残雪のアルプスを見ながら、泳ぐなど考えもしなかった。

 翌日は雨模様だが、ピラタス山に登ることにした。登るといっても自転車で登れる山ではない。登山電車で登るのだ。標高2119メートルの山頂まで登山電車は440メートルの湖畔から高度差1660メートルを時速9キロで登る。その乗り場まで自転車で20キロほど湖岸を走る。
 1両だけの赤い登山電車3両が、相次いで発車してゆく。途中の勾配は最高斜度48度もあるアプト式だ。
 ボクの車両の運転手は途中の離合場所でアルプの牛飼いのために新聞を配達していた。
 高度が上がるにつれ、雲のなかに入り、そして雲海の上に出る。周りの険しい岩壁と草地の何ともいえない調和がいい。

 

 雨が止んだので、ピラタス山の稜線を歩く。鋭い岩峰と目が眩むような谷、その間を移動するロープウエイなど、スイスを代表する光景を楽しんだ。ピラタス登山は旅を締めくくるにふさわしいものとなった。

 旅の終わりにサイクルメーターで延べ走行距離を確認したら、2400キロとなった。旧ユーゴ探訪とハンガリーからチェコへの自転車旅、実走30日間(7カ国)の距離である。(了)




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