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ポーランドを巡る



    ポーランドへ

 ボクは2010年の自転車旅を早くからポーランドと決めていた。「シルクロード雑学大学」の第18次遠征隊が、ブルガリアとセルビアを辿るので、それに参加しつつ、そのままポーランドへの自転車旅を続けることにしたのだ。
 この計画は2010年の年明けから準備したのだが、直前になって「シルクロード雑学大学」のメンバーの一人が参加したいというので二人旅となった。

 6月18日、セルビアのベオグラードで、帰国する「シルクロード雑学大学」のメンバーを見送り、ポーランドのクラコフまでフライト。その後、アウシュビッツ訪問を終えた後に、ワルシャワ、グダンスク、そしてバルト海に沿ってひたすら西のシュチェチンへ、さらに国境を越えてドイツのベルリンまでを走ることにする。

 旅の目的は、ドイツとソ連から侵攻を受けたポーランドという国で、第二次世界大戦でどのような歴史的体験があったのか。そのことをつぶさに見て見たいという思いだ。島国日本では考えられない大陸のなかでの国家と、人々の体験を見てみたい。

   アウシュビッツの印象

 まず、最初にナチスによる大虐殺が行われた現場に立ってみたい。
 調べてみると、現地では日本人ガイドが活躍しているとのことで、幸いなことに東京の国立で、ガイド中谷剛さんの講演も聴くこともできた。
 6月19日。オシフェンチム博物館前に立つ。曇り、時々雨。さすが有名な世界遺産なので、ヨーロッパ各地からやって来た観光バスがひしめいている。ここでガイドの中谷さんと合流。

 正門を入るとまず目につくのは「働けば自由になる」(Arbeit macht frei)というアウシュビッツの有名な看板だ。ガイドは、このスローガンに導かれ、囚人は競い合って働いたと説明。ヨーロッパ各地からユダヤ人たちが次々とここに送られ、最終的には28もの収容所が作られた。パリやベオグラードからも貨物列車で運ばれたというヨーロッパ図もあった。フランス国鉄も協力したのだった。

 収容されたのは、ユダヤ人のほか、反ナチ活動家、ロマ人、ロシア兵捕虜、ポーランド人などドイツ民族を守るために排除すべきとする人間を運んできた。その貨車の実物も置かれていた。貨車のなかには小さな木箱のトイレが一つ。横になることもできない状態だった。



 展示されていたのは、殺戮に用いた毒ガス・チクロンBの空き缶の山、累々と積まれた女性の髪の毛の山、また山。ユダヤ人が祈りのときにかぶるガウン。櫛やブラシ、シェービング道具。靴などユダヤ人が身につけていた品々。旅行鞄にはヨーロッパ各地から収容されたことを示す「ウィーン」、「オスロ」などの都市名も読める。
 ガス室の手前の脱衣場で脱がされた衣服類。累々たる数の義足や松葉杖。鍋釜の山。8万足の靴の山。これらの遺留品を目の当たりにして言葉はなかった。どうして人間がこんなことを出来たのかと…。

 連れて来られた日付と死亡日が記された収容者の囚人服姿の顔写真。明日を見ることができない目をした子ども達の写真が特にボクの目に焼き付いた。囚人の胸には人種ごとに胸につけたマークが違っている。たとえば赤い三角は政治犯、黄色い三角はユダヤ人。

 ルドルフ・ホス所長が処刑された絞首刑台もそのまま残されている。その近くにはホスが家族と暮らしていた家もある。時折、虐殺された犠牲者を焼く煙がホスの家まで流れ込む近さだ。
 遂にガス室に入る。なんとも云えない陰惨な部屋。救いは部屋の中央に小さい灯明が一つあったこと。

 外の慰霊碑の前ではフランスから来たユダヤの人たちがユダヤ教の賛美歌を犠牲者に捧げている。ボクも手を合わせた。 



 続いてバスで向った縦800メートル、横1200メートルの広大なビルケナウ収容所。中央にはヨーロッパ各地からの貨車のレールはそのままに、両サイドには収容棟が並んでいる。まず貨物から降ろされた囚人たちは「医者」の手で、強制労働に耐えるかどうかで選別され、耐えられないものは「シャワーを浴びる」ために直ちにガス室送りとなった。映画「戦場のピアニスト」のシーンが迫ってくる。

 毎年1月27日は国連のホロコースト追悼日でビルケナウ収容所の記念碑の前で式典が開かれる。90歳の元ユダヤ人収容者は毎日ここに通ってきて「語り部」をしているという。
 強制収容所はポーランドに6カ所、ドイツに3カ所、オーストリア、ルーマニアにも作られた。

 ガイドの中谷さんはやや早口で思いをはき出すように語ってくれ、こちらの質問にも率直に応えてくれた。毎日、ここでガイドを続けることは、時には苦痛では…との問いかけに、彼は「逆に犠牲者から勇気をもらっています。絶対に絶望などしません」と応えてくれた。優れた日本人と出会ったことも素晴らしかった。

 20世紀に引き起こされた狂気を博物館というかたちで後生に伝える大切な現場を訪れることができ、ポーランドの旅の目的が半ば達成された。


 ヴェエリチカ岩塩鉱跡

 6月20日。雨の中、宿泊中のホステルからバスでクラコフ郊外のヴェエリチカ岩塩鉱跡に行く。何世紀にも渡って掘り続けられてきた岩塩鉱山、今では、世界遺産の博物館である。英語ガイドツアーに加わり、木製の階段を折り返しながら、垂直にどこまでもといった感じで降りてゆく。約120メートルばかり降り立った地底に長い長い坑道がのびていた。

 坑道に隙間なく立てられた木柱は白くペイントされている。ガイドの説明を聞きながら、大方の岩塩の純度は約50%だが、中には白い岩塩層では80%に達するものもあるという。坑道の壁は大理石のようにツルツルに輝いており硬く、ときたま岩塩の層の間から流れでた塩水がカリフラワーのように結晶を作っている。

 岩塩の掘り出しで出来たいくつもの巨大な空洞には、掘り出しにまつわる様々な出来事や、掘り出しの様子が展示されてあり、岩塩の彫像もある。壁面も同様で、掘り出し労働の様子や、宗教的な色彩のものなどの像や文字が浮き彫りにされている。

 圧巻は岩塩で作られた巨大なシャンデリアで浮かび上がった「大宮殿」で、キリスト像や「最後の晩餐」などが模写されていたし、死去する少し前にヴェエリチカを訪れたポーランド出身の前ローマ法王の像も建てられていた。坑内には労働者のために設けられたチャーチで、安全のためのお祈りが毎朝行われていたという。

 特別に期待していたわけではなかったが、約2キロの地底を歩いて感じたことは、ポーランドの必見のスポットだということだ。


 
  アンドリュウさん


 「夕方7時に来てください」と云われた、ホストのアンドリュウさん宅に行くまで、時間調整を兼ねてトラムに乗る。「1時間乗車券」でトラムに乗ったり、乗り換えたり。日本で云えば京都にあたる古都クラコフの街の規模や様子が、輪郭としてわかってくる。
 雨が降っているので自転車は分解したまま、タクシーで郊外の団地の9階のアンドリュウさんのアパートに到着。

 ボクは「サーバス」という草の根国際交流組織の会員なので、訪問国の会員の家庭にお世話になることがたびたびだ。その逆で各国の旅行者が東京に来たときは泊めてあげて交流を楽しんでいる。今年だけでも、アルゼンチン、フランス、デンマーク、そしてポーランドからやってきた4組、延べ7人の旅行者を受け入れた。

 今回の旅も事前に訪問先にメールで依頼し、OKをもらってから転がり込むわけだ。この相互交流システムは、ホテル泊では得られない現地の人との交流を通して、相互理解が広がることが何よりのメリットだ。

 2度も日本に来たことのあるアンドリュウ・コバルナスさん宅にお世話になったのだが、ご本人は自分で「安自栄 小春茄子」とフルネームを漢字で充てるほどの日本びいきで、語源研究が趣味という言語学者だ。事前連絡では「友達のためのベッドはありませんが、それでもよかったら」とメールをもらっていたので、Yさんは床に寝かされてしまった。

 ボクもイギリスで玄関先の靴脱ぎ場で寝かされたことがある。日本人は来客を泊める部屋がないからと「体面」を気にするが、こうしたことが海外では当然のように行われている。もちろん中には豪邸の一部屋をあてがわれることもあり、B&Bより格段上のリッチな体験もできる。提供される「宿泊場所」で、安全に夜露が凌げるわけである。

 食事にありつけるかどうかは相手次第だが、大抵の場合は簡単な食事も提供されるが、日本のようにご馳走で歓待されるということは希だ。


 アンドリュウさん宅では、同じく大学で英語を教えている奥さんが、短い麺が入ったサーモンと野菜のスープ、ジャガイモサラダの家庭料理を出してくれて、とても美味しく戴いた。現地の人々が日頃どんなものを食べているかも体験できるわけで、ボクらが「一緒に飲みましょう」と持ち込んだワインは、夫妻はそれぞれグラス一杯飲んだだけで、ほとんど、ボクらが戴いたようなものだった。

 現地の人を訪れる、もう一つのメリットは地元情報を詳しく聞けることである。食事中で知ったことはボクらがアンドリュウさん宅に転がりこんだ日が、丁度、大統領選挙の投開票日で、テレビでは開票速報が流れ、結果は「民族派」と慕われ墜落死した元大統領に代わって、臨時大統領を務めた下院議長が当選したことだ。選挙結果でポーランドの政治が大きくロシア寄りに舵が切られるということはないだろうというのがアンドリュウ元クラコフ大学教授の観測だ。

 そのアンドリュウさん、クラコフから20キロの所に山荘を持っておられるが、これが今回の戦後最大の大水害で人造湖が決壊し、床上浸水の被害を受け家具や家電用品が粗大ゴミと化してしまった。週2〜3回後片付けに通っているといわれが、ボクらはただ「お気の毒です」と、云うばかりだった。

 厚かましくも、ボクは大水害を被ったポーランド最大のヴィスワ川流域を北上する計画なので、冠水地の自転車通過は大丈夫ですかと伺ったところ、いまは水は引いているとのことで安心した。むしろ気をつけなければならないのは、場末の酒場などに旅行者をねらう者がいる場合があるとのことで、ありがたい忠告だった。「自転車で旅する人は強い人ですね」とのコメントまで戴いた。ポーランドはここ数日小雨が続いている。


  クラコフの街

 6月21日。アンドリュウさんは90歳になるお母さんを介護するのに忙しいので、トラムの駅前で別れる。ポーランドにも日本と同様「老々介護」の現実があることを知る。

 クラコフはポーランド第2の都市、そして「古都」である。日本で云えば京都か。でもクラコフは京都と違って、そのクラコフ旧市街は威厳と風格に満ちていた。
 トラムの一日券を購入して旧市街に入り、セントペテロ・セントパウロ教会、セントアンドリュウス教会などに立ち寄りながら、ヴィスワ川畔の小山に建つ大きな城郭、ヴァベル城に登る。

 ヴァベル城からはボクらが辿るヴィスワ川を見下ろすことが出来た。ポーランド随一のヴィスワ川はここからワルシャワを経て北上し、グダンスクでバルト海にそそいでいる。ポーランドの大平原を東西に切り開くように流れる大河である。ここクラコフですでに川幅は100メートルほどある。この川が5月の長雨で氾濫したのだ。戦後最大級の規模だったという。現在は水は引いているものの、被害の爪痕はアンドリュウさんの場合のように流域のあちこちに残っている。ヴァベル城から見下ろす川は被害のことを感じさせない。

 歴代のポーランド王の居城であったヴァベル城には歴代の王の墓もある大聖堂、旧王宮、竜の洞窟といったいくつかのスポットがあった。17世紀の旧王宮では遺構や重厚な中庭、そして当時の王の遺品や武具・馬具の展示を見て、竜の寝床のような「ドラゴン洞窟」に行く。

 ユダヤ文化が色濃く残されているカジミエージュ地区では残念ながら博物館の「シタラ・シナゴーグ」は閉館していたが、「ユダヤ文化センター」では「 never more アウシュビッツ 」のポスターやアウシュビッツ博物館50周年ポスターを見かけたし、ユダヤ教会にも初めて立ち寄った。



  「ポー」を走る

 クラコフの、語源を調べるのが趣味というアンドリュウさんは、国名ポーランドの「ポー」は草原のことだと説明してくれた。クラコフからワルシャワの手前まで4日間かけて400キロ以上この国を走ったが、まさにポーつまり草原の国だと納得。
 緩やかな起伏が続いているところ、はるか彼方の地平線まで続く真っ平らな大平原、そして深く広がる森。人々は主に麦や野菜、牧草を平原から得て生活の糧としている。淡い緑の平野、濃い緑の森林、その緑に染まって走る。時折、「日本は山国、峠はきつい」を懐かしく思い出す。単調な水平走行に飽きてくるころ、小さな街が現れる。

 ボクの旅スタイルはサポートに依存できない自主独立の旅なので、大きめのフロントバッグとリアの振り分けパニアの、3個の荷物をつけて走っている。荷物の重量は25キロほどで、ランドナーの重さの2倍もあるから、平原の走行で休んだり、写真を撮ったりする時に自転車を立てかけるところもないので苦労する。横倒しに置くと、引き起こしが大変だから、やりたくない。というわけて写真撮影も自転車にまたがったまま、小用も同じく「横出し」だ。誰も見てない。

 東京であらかじめ、1日100キロ前後になるように、ルートを決めておいた。ゴールには必ずホテルがあるとおぼしき小都市を選んである。「キャンプ」はやらない主義だ。これは荷物が増えるばかりで「後期高齢者」が真似することではない。年齢にふさわしく、ゴールで美味い料理と酒、乾いたシーツを楽しもう。

 6月22日から24日にかけは、「ポーランド・ルネサンスの真珠」と呼ばれるタルヌフ。「クラクフのミニチュア都市」のサンドミエシュ。中世のポーランド大王がユダヤ人の街作りを許したという美しい街カジミエージュなど、日本人もほとんど行かない小さな街に早めに到着し、至福のひとときを過ごす。

 カジミエージュに向かうルートでは、今回の大水害で被害を被った最もひどい地域を通過した。大方の家々は、2メートルから3メートルの床上浸水に見舞われ、中には屋根だけを残して水没したと見られる泥の痕が残っている家もあった。家々の前には粗大ゴミと化したベッドや、ソファーが山積みだ。写真を撮るのもはばかれる有様で、まさに「ゴースト・ビレッジ」が延々と続いていた。被害を被った人は約3万人。都市ではなく農村地域の3万人だから、いかに広大な地域だったかわかる。果樹園も全滅。数週間の水没でスモモは茶褐色に、水没を免れ梢だけが緑を保っている。牧草地帯の緑も一面の茶褐色に変色。家畜に与える牧草も全滅だ。

 ボクらは、ほぼ100キロ毎に氾濫したヴィスワ川を渡り、その右岸と左岸を交互に走った。橋と出会うたびに川幅が広くなり、最上川のようなかなり速い濁流がワルシャワに向かって流れていた。

 6月25日。そのワルシャワまで残り140キロとなったが、ここで予定のルートを変更し、ラドムに向う。ラドムからはワルシャワまでの残り数十キロを列車で行くことにした。もちろんポーランドでも、他のヨーロッパ諸国と同じく、自転車をそのまま列車に乗せることができる。場合により列車での移動も良いものだ。ワルシャワ到着までの列車の旅を楽しむ。



   ワルシャワ駆け巡り

 6月27日。ワルシャワの朝の散歩で、ホステルの近くにある、元ポーランド統一労働者党本部が置かれていた証券取引所を見る。かつてポーランドを支配した「共産党」らしく権威の象徴のような建物だが、現在は屋上に「リコー」の看板が掛かったり、中庭にトヨタの車が駐車していたりして、時代の変遷を感じる。

 ワルシャワで、訪れたいところはいろいろあるが、日曜日の今日、どうしてもはずせないのが広大なワジェンキ公園内にあるショパン像の下でのピアノ演奏だ。

 女性司会者は英語で1956年から夏の間、欠かさず日曜日毎に無料コンサートを1日2回行っていて、市民と旅行者にショパンの音楽を楽しんでいただいておりますと挨拶。そのあと、コンクールで優勝した男性ピアニストが演奏を始めた。曲はボクも日本で何度も聞いたことのある「華麗なる大円舞曲」、「ノクターン」など有名な曲ばかりだ。

 日本人の顔もちらほら見えるように旅行者もいるが、聴衆のほとんどはワルシャワ市民だ。散歩の途中で立ち寄ったカップル、わざわざ自転車に乗って聴きにきた中年女性など、ざっと見渡して3000人ほど。

 ボクはショパンが、いまもこれほどワルシャワ市民に愛されていることに驚いた。そして音楽が心底好きだという人々の気持ちも伝わってきた。というのは誰でも参加できる無料コンサートだと、日本では私語が絶えないなどよく見られる光景だが、一面に赤いバラが咲く公園のベンチを埋め尽くすだけでなく、花壇の煉瓦にも腰掛けて集中して演奏を聴いている聴衆の姿は、コンサートホールの雰囲気と変わりないからだ。

 コンテストで優勝したピアニストの演奏だからかもしれない、また今年はショパン生誕200年ということもあるかもしれないが、ワルシャワ市民の文化水準の高さを感じざるを得なかった。

 わずか25分間だったが、真っ青な空、柳の巨木の下で曲想にふけるショパン像のもと、乾いた空気を伝わって流れてくるショパンの透明な曲に、ボクは我を忘れた。

 第2次大戦でナチの空爆で完全に破壊された旧市街の市場広場を訪れた。空爆前の写真を手がかりに再現したとうから市民のワルシャワを愛する心は半端じゃない。日本なら間違いなく再開発だ。そのナチに破壊された街の資料が見られるワルシャワ歴史博物館は修繕のために閉館中だったのが心残りだ。

 半旗が翻る大統領府の前には、突然の墜死で、ポーランド国民が深い悲しみにくれた前大統領を偲ぶ大きな写真が掲げられ、その前は花束や灯明で埋め尽くされていた。また搭乗機の残骸や、葬儀の写真パネルも並べられ、人垣が出来ている。

 ここワルシャワからも多くのユダヤ人がアウシュビッツへ貨車で送られたが、そのことを忘れまいとする大きな記念像が、彼らが実際に送られた貨物引込線駅の近くに建てられていた。ワルシャワ・ゲットー記念碑である。ボクは長崎の原爆祈念像を思い出した。

 記念像の前にはユダヤ人の小さな皿のような帽子をかぶった若者が大勢集まっている。日本から来たというとたちまち取り囲まれ、我も我もと一緒に写真を撮ることをせがまれた。ロサンゼルスから来た男女の高校生たちだった。夏休みのヨーロッパツアーの途中なのだろう。ユダヤ人が受けた悲劇を若い人に伝え残そうという気持ちは、よく理解できる。



 続いて「市民よ立ちあがれ」と銘打たれた蜂起を呼びかける記念碑、ワルシャワ蜂起の群像、そしてポーランド各地からアウシュビッツに送られたことを告発する巨大な枕木とユダヤ人が詰め込まれた貨車を模したモニュメントを見る。枕木は47本あり、そのすべてにポーランドの地名が浮かびあがっている。枕木の先には1台の貨車があり、たくさんの十字架が立てられている。貨車の床の隙間から、指が救いを求めるように突き出ている。アウシュビッツへの死の輸送をこのような迫力に満ちた巨大モニュメントに仕立てたのは誰だろう。

 ワルシャワ蜂起博物館は、Warsaw Rising Museumu の英訳も添えられているが、日本流に翻訳すれば「ワルシャワ平和博物館」だろうか。ナチスの空爆でワルシャワは20万人が犠牲になったが、市民やパルチザンが組織的抵抗に立ちあがり、「ワルシャワ蜂起」と呼ばれた反ナチ抵抗闘争の史実を伝える博物館である。

 ナチスの空爆機の実物や、抵抗闘争を組織する「地下」のビラ工場、火炎瓶やピストルといった軽火気器中心の武器類などが展示されている。戦いは敗れるが、効果的な学芸員による展示からは、死守したいワルシャワと市民の誇りを感じ取ることができた。

 この博物館では、たまたま、ソ連によるポーランド将兵を虐殺した「カティンの森」事件の展示も行われていた。ポーランド将兵を虐殺の森まではこんだ輸送トラックの実物も展示され、ボクは思い出したくない映画「カティンの森」の実におぞましい最後のシーンを思い出さずにおれなかった。

 ワルシャワを去る日の朝、映画「戦場のピアニスト」の主人公ウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000)の墓詣りをした。映画で、奇しくもアウシュビッツ送りから逃れワルシャワ市内を彷徨するシュピルマンは、実在のピアニストだったのだ。市内のはずれにある大きなコムナルニィ墓地を探し当てたのだが、管理人が「日本から来たのか」といって、シュピルマンの墓まで案内してくれた。有名な人物なのに、墓碑には彼の名と没年が彫られているだけという簡素な墓だったが、誰かの献花があった。

 ワルシャワでは、ホステルのほか、ジョアナさんと、カジアさんの2軒のホストにお世話になった。どちらもシティーセンターから5キロ圏にあり、自転車で市内と行き来するのに適度な距離だった。それぞれ小さな子どもも居て、楽しく過ごすことができた。

 広い市内に散在しているこうした場所を訪れるのに自転車ほど便利なものはない。自転車道も整備されていて、効率よく巡ることができた。見るべきもの、訪れるべきところを、すべて訪れ、ワルシャワを後にする。 


  ヴィスワ川を北上する


 6月29日。ワルシャワを出て、再び、風の音を聞きながらヴィスワ川の左岸、「ポー」を走る。午前中は89キロ走行。走りすぎだ。レストランらしきものはほとんどなく、小さな店を見つけて休憩。ようやくヴィスワ川の河畔にそびえるプウォックに入る。11世紀から12世紀にかけておよそ60年間、首都だった街だから風格があるが、現在は観光客も訪れない。

 百羽を越える白鳥がヴィスワ川いっぱいに広がってエサを獲っている。その先にヴィスワ川の巨大な堰があり、川幅は1キロに広がっている。森では、黄色いキノコを採取した地元の人が道路脇で売っている。いい現金収入になるのだろう。

 標高は徐々に下がっている。ついに海抜50メートルとなる。といっても10キロ走って1メートル下がる程度で真っ平らだ。だからペダルは軽い。

 6月30日。トルンは旧市街地が世界遺産の『中世都市』で、コペルニクスの生誕地でもある。

 7月1日。トルンを出て約22キロでダートに入る。菩提樹の道では小鳥がさえずっている。いよいよポーランドに深く分け入った感がある。延々と続く菩提樹の木陰。快適。
 ヴィスワの広大なデルタ地帯のグリーン。青い空。白い雲。菩提樹の幹に自転車ルートのマークが描かれている。

 実はポーランド大使館で貰ったマップに西ヨーロッパからの自転車ルートを見つけていた。ポーランド西部から東に向かい、ヴィスワ川で北に転じ、そのままバルト海に出るルートだ。ボクは「この一部を走ってやろう」と用意していたのだが、現地に来るまで自信がなかった。
 この道はサイクリング専用道ではなく、ごく普通のポーランドの田舎道で、道の両側には菩提樹が大きく茂り、真夏の強烈な太陽を避ける木陰が続いている。クルマは2キロほど離れた1号線を飛ばしているから、この道を走るクルマはたまに出会う程度で、楽しくポーランドの田舎を満喫できた。
 ヨーロッパサイクリング協会が指定したルート「R1」の起点はドーバー海峡に面したフランスのブローニュ・シュル・メールで、ゴールはロシアのセント・ペテルブルグで総延長3500キロ以上ある。このルートの一部を丸一日かけて100キロあまり、走ることが出来た。

 7月2日。朝のノエの街は深い霧に包まれている。メガネに水滴が付着する。7キロ走ったところでようやく霧も晴れてきた。朝露を受けて牧草がキラキラ輝いている。アブラナ科の雑草に仕掛けた蜘蛛の巣が霧の水滴を受け、朝日に光っている。一面の蜘蛛の巣はまるで綿花畑のようだ。草原が朝の光に輝いている。ヒナゲシは真っ赤な絨毯だ。正午、グダンスクに到着。こうしてワルシャワ〜グダンスク間を4日間で448km走った。そして、ここまでのポーランド走行累計距離は962kmとなった。


 
  「連帯」運動発祥の地グダンスク


 ポーランドを南北に縦断して流れてきたヴィスワ川がバルト海に流れ込むグダンスク。北に繋がるソポト、グディニアと合わせ「三つ子都市」を形成している。なかでも規模の大きいグダンスクは、1997年に建都1000年を迎え「千年都市」とも呼ばれている。旧市街に向かってまっすぐに伸びるドゥーガ通り、そしてその先に「ネプチューンの噴水」がドゥーギ広場にある。

 市内で一番高い聖マリア教会の400段の階段を登って、その展望台からグダンスク市内や、ここまで走ってきたポーのはるかな地平線を見渡す。目を転じるとグダンスク造船所の建造中の赤い船首も見える。

 「連帯」運動の舞台となったレーニン造船所(現グダンスク造船所)正門には連帯運動の発祥の地と書かれている。ソルダルティ(連帯)と記された旗とポーランド国旗、それにヨハネ・パウロ二世の写真も飾られている。土曜日なので造船工場内のバスツアーはお休み。レフ・ワレサはここで電気技師として働いていた。

 造船所横にあるのは「犠牲になった造船所労働者の記念碑」。この「連帯運動」への犠牲者を弔う巨大な錨を模した記念碑は労働運動の聖地の雰囲気で、今も訪れる人や献花が絶えない。日本の「国労」も『鎮魂』と刻印したプレートを捧げていた。

 1980年の独立自主管理労組「連帯」の委員長だったレフ・ワレサ(1943年9月29日〜)は、ポーランドの民主化をリードした後、第二代ポーランド大統領を務めたが、1995年の選挙で破れ、以後の政治活動はない。1983年にはノーベル平和賞を受賞し、現在はグダンスク郊外に蟄居している。

 その「連帯」運動の博物館は造船所近くの地下にあった。その入口には「連帯旗」が翻り、共産政権が彼らの弾圧に使用した戦車が置いてある。

 地下展示場では、当時のフィルムが映され、集会で当時の若きワレサが「労働運動を通して権利を確立することだ」と演説している。ソ連式の売店には何も買うものがない有様が展示されるなど、市民の窮乏状態に造船労働者が「連帯」して立ちあがるよう呼びかけ、それに市民が呼応するさまが克明に示されている。そして運動への弾圧シーンが上映される。ここはユネスコの「世界の記憶」リストにも掲載されている実質的なポーランド民主化のメモリアル・プレースなのだった。

 「連帯」運動で民主化を勝ち取ったポーランドは当時からすでに30年が経過し、その後のポーランドのあり方、その進路をめぐって議論が交わされ、それが政治状況に反映されている。その一部はワルシャワで垣間見たのだが、今後とも、EUの一員として経済的にも、政治的にも自主独立の立場で発展してほしいと思う。



 
  バルト海に沿って西へ

 7月4日。予定した日程が早く進んでいるのでルートを変更して、バルト海に突き出たヘル半島を巡ることにする。ワルシャワのホスト、ジョアナさんの勧めによるものだ。

 半島に渡るフェリーの乗客はほとんどポーランド人だが、スウェーデンからやって来た人も多い。ストックホルムから大型フェリーで19時間かけてグダンスクに来て、このフェリーで半島突端のヘルに行くというおばさんから声が掛った。4時間海辺で遊んで戻るのだという。日本流に云えば東京から伊豆方面への日帰り旅行のような感じなのだろう。

 半島は細く長い形をした長さ40キロ、幅2キロから3キロで、先端部が少し幅広く「孫の手」のような形をしている。松林が茂る国立公園だ。海抜は1から6メートル。ヘルは完全な夏のリゾート地域だった。そこから16キロほど走ってシャスターニアという町のゲストハウスに泊まる。日本の民宿のようなもので、3階建てで家族用以外にゲスト用の4部屋を持っている。夏だけの商売だ。

 7月5日。7時、半島を北に向かって走る。リゾート地帯なので様々なアコモデーションがある。キャンプサイトには、キャンピングカーがひしめき、テント泊も多い。海岸沿いの自転車道は快適。さすがジョアナさんが勧めてくれただけのことはある。ハマナスの花が延々と続く。丁度20km走って半島の付け根に到着。ここからはポーランド最北東部の海岸線を走る。道の両側には、クルマがいっぱい止まっていて、人々は林のなかの道を通って海岸に向かうのだ。

 そのポーランド最北東部の海岸で泳ぐ。バルト海の水は冷たく身が引き締まる感じがする。海水はやや不透明な緑色で砂は三温糖のように実に細かい。この地方の人々の習慣は「囲いもの」を持参して海岸で過ごす。これで、浜辺にプライベートなテリトリーを思い思いに作るのだ。このなかには「Today Tomorrow Toyota」と印刷されたものもあった。日本企業はしたたかだ。彼らの習慣のなかでもしっかりPRしている。

 7月6日。朝6時、出発時にシャワーが来て出鼻をくじかれる。6時半に止んだので出発。しばらく走るとまた雨が降り出した。鹿がゆっくり道路を横断して森のなかに消えていった。今朝から、3組4人のサイクリストとすれ違う。中年カップルと青年、そして1輪車を牽引するドイツ人とおぼしき中年男性だ。だれも雨を気にしていない。これまで15日間快晴だったから、久しぶりの雨だ。文句を云っても始まらない。こうして雨の中、6時間後にスープスクの街に着く。

 基本は、早立ち、早着きだ。6時から7時ごろ宿泊場所を出発して、途中で朝食を摂り、正午から午後3時頃には目的地に着いてしまう。たまに夕方の5時頃着もあるが、早着だと気持ちにゆとりをもって走ることができる。雨でも、よほどの降りでない限り走っている。フロントバッグとハンドル部全体を覆う自作のカバーをつけているので、手も濡れないし、完全防水なのでパソコンなども濡れない。

 上半身はレインウエアだが、下半身は蒸れるのでそのまま。だから靴も濡れてしまうが、蒸れても平気だ。宿に着いたら特別の方法で乾かしてしまう。

 ボクらはホテルやホステル、ゲストハウスなどに泊まって旅を続けているが、宿泊代は日本円にして3つ星ホテルで素泊まり一人1泊2400円、最低はクラコフのホステルで900円という安さだ。ビールは平均150円前後、ポーランドの銘酒ズブロッカもボトル900円ほど、夕食は飲み物込みで1000円も出せば食いきれない。これまでの支出を日数で割れば、一人1日3000円ですべて賄える計算だ。日本では2食付き民宿に泊まれば、軽く1万円は消えるから、ポーランドの物価はほぼ日本の3分の1以下ということになる。




 

    シュチェチンへ

 7月7日。北欧方面から高気圧が押し寄せ、秋冷で寒く気温10度。淡いピンクの花を一面につけたジャガイモ畑、青森などのローカル空港ほどの広大な広さでビックリ。風の常襲地帯で発電風車100基が広いエリアに散らばり、どれも良く回っている。その風に向かっての走りで、スピードはガタ落ち。いつもの平均時速18キロが12キロとなる。それでも14時半、コウォブジェク着。

 7月8日。道は細かなアップダウンを繰り返すようになる。バルト海に向かって立つ灯台が遠くに見える。綺麗なピンクの野草の背後にバルト海が見え隠れする。道はトラクターが減り、代わりにキャンピングカーが増えてくる。沼あり、森ありの国立公園の途中、深い森のなかのバイソン保護区に行く。ポーランドの原生林、木々の根元は苔むしている。松などもあり広葉樹との混交林だ。野生のブルーベリーが密生している。

 見ることが出来たのは5頭のバイソン。かつて広くヨーロッパに生息していたが、いまはポーランドの保護区でしか見ることはできない。保護区は動物園の周辺に木の塀を巡らせて作られていた。もちろん見ることはできない。

 街のすぐ西側はドイツ国境、港湾都市シフィノウィシチァ。ここに入るには無料のフェリーに乗るしかない。水路には橋が設けられていないからだ。街は1945年当時ドイツ領だったためアメリカの空襲で破壊された。戦後はポーランド領となり冷戦期にはソ連海軍の基地も存在した。

 7月9日。今日はバルト海とシュチェチンを繋ぐ水路や大きなシュチェチン湖をボートで辿り、ポーランドでの最終目的地シュチェチンへ向かう。昨夜、ホストのコトウスキーさんと連絡が取れ、夕方伺うことになった。彼は51歳のエコノミスト。

 高速艇は時速60キロで水路と潟湖を切り裂いて行く。水面は細かなさざ波でキラキラと輝いている。モーターボートばかりか水面すれすれに飛ぶ水鳥も追い抜いてシュチェチンに到着。



 シュチェチンはポーランドではグダニスクに次ぐ第2の規模の港湾都市だが、その歴史は古く、1243年に自治権を獲得したものの18世紀にはスウェーデンに支配されたり、19世紀にはドイツ領となったりもした。日本人の常識を越える歴史経験だ。その市街は第二次世界大戦でのドイツ軍とソ連軍の戦闘で破壊され、戦後はふたたびポーランド領となり、ドイツ系住民が大量に追放された。歴史地区を含む市街中心部と港湾は100%破壊されたが、戦後、市民の手で正確に復元された。
 1970年と1980年には大規模な反社会主義暴動が起こり、「連帯」の活動に大きな影響を与えた。

 GPSを頼りに市内をホストのコトウスキー宅へ。訪問すると奥さんのアリーナから「さよなら」と迎えられ面食らったが、ボクらは教室に使うという小部屋をあてがわれた。コトウスキー宅は郊外の丘の上の一角にある。日本流に云えば二戸一の住宅で、アリーナが経営する語学学校の名前も付けられている。食事は例のピンクのスープとサラダ、それにジャガイモとベジタリアンだ。ワインが少し出た。

 アリーナによると、共産政権が崩壊し、国境がオープンになると、西ヨーロッパへの旅行や仕事を求める機会が増え、それに伴って英語の習得が人々の要求になってきたという。アリーナが始めた語学学校は大当たりで、小学校の授業を終えた子ども達が200人も通っているという。小規模グループや個人教授で英語のほかドイツ語なども教えている。頂いた名刺には9カ国語が並んでいたが、そのなかに日本語も含まれていた。

 アリーナは商売柄、特に言葉に興味があり、いくつかの日本語をメモしていた。ローカルピープルを訪問することで、こうしたポーランドでの実際の生活や、またその変化を知ることができるので、サーバスのホスト宅訪問はやめられない。

 7月10日。昨日の夕べ、アリーナのクルマで近くをドライブした際に出会った、オルード・イングリッシュ・マシフというとても大きな犬と散歩中のカップルが、是非、日本人を観光案内したいと申し出てくれた。主はヒューレッド・パッカードのエンジニヤのヤレックと、その妻で家庭裁判所判事をしているアニャだ。結果として、ボクらは素晴らしい市内観光ガイドをシュテチンで得たことになる。

 彼らが案内してくれたのは、「連帯」運動の先駆けとなったステチン造船所のストライキが行われた門前や、3年前に完成した、運動の犠牲となった青年や若い女性ら18人の記念碑のほか、13世紀の最も古い教会、それにカテドラルからシュテチン市街を見下ろしたりと、いたれり尽くせり。

 ヤレックは39歳だが、19歳のときに共産政権の崩壊を体験しており、「連帯」運動で自由を勝ち取ったのは、とてもいいことだと話してくれた。彼らのクルマで30分ほど離れた森なかにある「リノボ」という湖に行った。

 湖岸のコテージではコトウスキーさんと、アリーナの語学学校で働く英語教師のマリオシュさんが、バーベキューの支度をして待っていてくれた。食後の時間をのんびりと過ごしたあと、リノボ湖で少し泳いだ。綺麗な湖で10センチほどのずんぐりした魚をたくさん釣っている人もいた。水温は適度で、バルト海のように冷たくはなかった。

 彼らは泳いでは休み、何かを食べ、話をして、また泳ぐというサイクルを3度ほど繰り返し、午後7時まで湖岸で過ごした。ポーランドの人々は待ちかねた短い夏をこうしたところで目いっぱい楽しむのだ。都心からわずかに30分のところにあるリゾート地で過ごせることをうらやましく思った。

 午後8時にコトウスキー家に戻り、ボクは「カレーシチュウ」の支度を始めた。前夜、「もし良かったら」と約束していたもので、日本から持ってきたカレールーをすべて使って、大人6人分と子ども達の大量のカレーを作った。
 みんな美味しいと喜んでくれた。コトウスキーさんはワールドカップの決勝戦を見ながら、せわしくカレーを口に運んだし、アリーナは「長く居てもっと作って」と云ってくれたし、子どもらも「ストレンジ」と云いながらお代わりをした。


     東ドイツを走ってハノーバーへ

 7月11日。10時近くに、コトウスキー家を辞し、24キロでドイツ国境を通過。国境の表示のほかは何もなく、国境管理時代の標識が残っているだけ。ドイツに入り、最初の村で、Yさんが行方不明となる。地元警察にも協力を求め、探したが見つからないので、先に進み、国境から45キロのスウェトで泊まり、彼からの連絡を待つが連絡がないので、次の日は70キロ先のエバースワルデで落ち合おうと連絡する。その夜、彼からのメールでベルリンにいることが分かり、30時間ぶりに連絡がついて一安心。

 7月13日、ボクは暑さを避けて早朝から走りはじめ、ベルリン近郊の深い森を抜けて、ひそかに決めていたボクの今回の旅のゴール「ブランデルブルグ門」に着いた。長い自転車旅のゴールである。それなりの感慨があった。

 ここでYさんと落ち合ったあと、ボクらはサーバスのホスト、バートホルドさんの高級マンションに転がりこんだ。彼は日本人以上に多忙なビジネス生活を送っており、2日間、ボクらに鍵を預けて、冷蔵庫のビールを飲むのも、洗濯機を使うもの、なにをするのも結構といってくれて、本当に自由に使わせてもらった。お礼にと「肉じゃが」を作って待ったが、深夜まで帰ってこなかった。

 ベルリンで印象に残っているのは、巨大な若きレーニンの胸像に「NO」の落書きがされており、消されないまま放置されている。「過去はもういい」とでも云おうか、現在のベルリン市民の気持ちが解るようなような気がした。もちろん崩壊した「ベルリンの壁」を訪れた。かつて壁が存在したところは「壁」にまつわる野外博物館として、様々な展示がなされ、壊されず保存されている「壁」付近では、犠牲者を追悼する記念碑や、「壁」をキャンバスに「壁」を告発するアート作品がどこまでもつながっていた。また東独の国民車トラバントも展示してあるDDR博物館…東ドイツ博物館も、当時の市民生活の様子が解り興味深かった。第2次大戦と戦後の東ヨーロッパで起きたことを巡る旅を、このベルリンで締めくくり、ボクの旅は終わった。



 ベルリン以降、ボクらは西のハノーバーに向けて数日間の自転車旅をしたが、このなかで2つのことだけ触れておきたい。もちろんドイツのビールやハム、ソーセージ類も楽しんだのだが、それを書き出すと長くなるので、止めておく。

 話題の一つはベルリン近郊の美しい街ポツダムに立ち寄り、偶然にも地元女性の案内で、歴史上有名な「ポツダム会談」が行われた貴族の山荘ツェツィーリエンホーフ宮殿を訪れることができたことだ。

 美しい湖と、後に世界遺産に指定された古い木造のこの館でトルーマン、チャーチル、それにスターリンのビッグスリー会談が行われたのだった。第二次世界大戦の終結とその後のドイツ統治を主な議題とする、この歴史的会談は、日本の北方領土問題にも大きな影響を及ぼし、日本は千島放棄、北方4島ソ連統治を内容とする「ポツダム宣言」を後に受諾するのである。この会談で日本はドイツとともに「お白州」に置かれ、日本国民にとっては文字通りの「蚊帳の外」の出来事だった。

 さらに2日後、ウーベスフェーラという小さな街を過ぎたところで、旧東ドイツから旧西ドイツ地域に入った。さきの「ポツダム会談」によってソ連占領地域がそのまま「東ドイツ」となり、長い「冷戦」時代を迎えるのだが、そのドイツの東西を分けた境界線には非武装地帯や監視塔など、往時の様子を示す看板が出ていたし、その隣には1989年に「東西問題」は解決され、欧州は統合されたという看板も立てられていた。その横をクルマが通過して行く。

 さて、最後の話題はドイツ自転車道のことだ。ボクは常々「自動車大国ドイツ、自転車天国ドイツ」と勝手に呼んでいるのだが、この数日、ドイツ国内の自転車道を走ってみた結果について触れてみたい。

 ボクは何度も、ドイツやオランダを走っているので、これらの国の素晴らしい自転車環境のことは知っているつもりでいた。その特徴は、一般道路とは完全に分離された途切れることのない自転車専用道や都市部の専用レーン、付随する自転車用信号機や右折専用レーンなどだ。もちろん、全国に張り巡らされた、楽しいサイクリング道路もあり、代表的なものにライン河サイクリング道路やドナウ河サイクリング道路などがある。さらに西欧や東欧を繋ぐヨーロッパサイクリング道路なんてものまである。

 東ドイツの場合、経済発展がやや遅れているので、自転車環境整備もあまり進んでいないのではないかと思っていたが、ベルリンにもしっかり自転車専用レーンがあり、郊外のローカルな一般道路にも、時々途切れるもののクルマとは遮断された自転車専用道が平行して延びていた。ボクらは専用道があるところは、そこを走り、途切れたら一般道路の路肩を走るということを何度も繰り返した。

 フォルクスワーゲン工場がある街ウォルフスブルグに入り、何層にも重なったジャンクションを抜ける自転車道を通ったときのことである。自転車道はそのジャンクションの下を短いトンネルで繋いでおり、東西南北どちらの方向へも信号待ちなしで素早く、かつ安全に市内中心部へ入れた。フォルクスワーゲン工場の街だから自動車交通も大事、しかし自転車交通をその犠牲にしないという合理主義が貫かれていた。

 極めつきは、ボクらの旅のゴール、ハノーバーである。冷戦時代、ハノーバーから東ドイツ内の西ベルリンへ生活物資を運んだというミッテランド運河に作られたサイクリング道路を辿って、ハノーバー市内に入り驚いた。自転車道路が縦横無尽に走っている。それも深い森のなか。森の木々が視界を遮るので、どこを走っているのか、見当もつかない。

 「神宮の森」を何倍も大きくしたような森のなかは、ほとんど自転車道だけ、あらゆる方向に通じている。調べると、マッシュ湖を基点として合計15本の自転車道路が放射状に延びている。もちろんクルマとはほとんど出会うことがなかったから、これは自転車中心の驚異的な都市デザインだ。渋滞とクルマ公害からの克服をめざすハノーバーの自転車中心の街づくりは、70年代から取り組まれ、今では全長530キロの自転車専用道と約5000カ所の無料駐輪場もあるという。日曜日のこの日、ハノーバー市民が2〜300人、森のなかでビールなど飲みながらゆっくりとした時間を過ごしていた。その周りにはおびただしい数の自転車が駐輪していた。

 遂にハノーバーまでやってきた。この街でボクらの自転車旅を終えることにする。ドイツ国内の走行距離は604キロ。ポーランド国内走行分1497kmを加えて2101kmとなり、さらにブルガリア、セビリアの走行分を加えると、ボクらの50日間の自転車旅の累計走行距離は3000キロを越えてしまい、タイヤもすり減ってしまった。
 ボクの場合はランドナー(650Bx32mm)だが、これまでノーパンク、ノートラブルである。




 
    人々の表情、美味いものと飲み物、走行環境

 是非行ってみたい国、行かなければならない国ポーランド・・・については、長々と書いてきたが、ほかにも書き残さなければならないことについて、最後に触れておく。

 ◎人々の表情。「ドブレ」(こんにちわ)と声を掛けても、無視する人、ぼそぼそと小さな声でつぶやく人がほとんどで、トルコ、ブルガリア、セビリアの人たちのような陽気さが感じられない。ドイツやソ連などから侵略を受けてきたので、外国人とは関わらない、または外国人は信頼できないといったことがあるのかもしれない。あるいは英語が出来ない人がほとんどなので、しゃべりかけると「逃げ」の構えになる。この点では日本人も同じだ。
 しかし国際草の根交流組織「サーバス」のメンバーであるホストは全く違う。まず積極的に外国人を受け入れて、もてなそうという精神にあふれている。今回、訪れたのはクラコフ1家庭、2泊。ワルシャワ2家庭、各1泊。シュテチン1家庭、2泊。ベルリン1家庭、2泊の全部で5家庭だった。
 それぞれ、ごく普通の暮らしぶりだが、教育レベルが高く、政治、経済、国際問題にも明るく、かつ旅行経験や他国での生活体験を持つ人も多い。ポーランド人の家庭生活を体験しながら、様々なことが話しあえる「ミニ国際交流」は楽しく、面白い。

 ◎美味いものと飲み物。スープのことを「ズッペ」というが、これが何種類もあり、疲れて食が進まないときはズッペに限る。モツ煮込み風、カブの酢漬け風、ジャガイモと人参のトラディショナルのものなど、どれも美味かった。
 「ザピエカンキ」と呼ばれるグリルドオープンサンドも癖になってしまった。チーズやサラダを乗せてあり、たっぷりとケチャップが掛かっている。
 「ケバブ」と呼ばれる料理はトルコでおなじみのものだが、厚めのナンのようなパン生地の中にたっぷりとしたサラダのなかにケバブが少し混ざっているだけで、とてもヘルシー。
 サーモンだけでなく、様々な魚の薫製も絶妙の味だ。これにビネガーたっぷりのサラダを添えて食べるとビールが進む。
 毎日走っているので、疲れた体にビールがしみこむ感覚がたまらない。ポーランドにはたくさんの種類のビールがあるが、代表的なものは男女が民族衣装で踊っているラベルの「ZYWIEC」(ジビック)だ。これが、やや色が濃く、コクがあって旨い。
 ポーランドの焼酎、ズブロッカは日本ではボトルのなかに野草が入ったものが有名だが、これにもいろいろある。ボクは、日本の屠蘇に近い薬草入りで甘い味の「ZLOTA」が気に入っており、ボトルが空になれば同じものを買ってきて飲んでいた。

 ◎自転車走行環境。一部に「ガタガタ舗装」があったものの90%以上は滑るような道路で快適な走行が楽しめた。「歩道を走れ」「側道を走れ」と指示があるところは従う。ワルシャワのような大都市はもちろん自転車専用レーンや自転車道路が完備していた。ドライバーの自転車にたいするマナーは最高。日本は最低。

 


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