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少し長めの前書き

 イギリスの西の島国アイルランド。いつかは行ってみたいと漠然と考えていたが、いよいよ今年(2006年)、出かけることにした。
 アイルランドは、イギリス領の北アイルランド(人口170万人)と、独立国であるアイルランド共和国(人口413万人)の二つの国がある。この2国を合わせると、面積(70,282ku)、人口(583万人)とも、ほぼ北海道(面積83,454ku、人口568万人)の規模に匹敵する。
 つまり北海道と同じ大きさのヨーロッパの島国を自転車で巡るのだ。

 18世紀、この島国から多くの人々がアメリカに渡り、アメリカという新しい国造りに参加した。ニューヨークの警察官や消防士は、誇りをもってニューヨークのまちづくりに参加したという歌… "When New York Was Irish" があるし、彼らの子孫はあの9.11のグランドゼロの礎になったものもいた。
 アイルランドは700年にわたりイギリスの支配に苦しみ、いまも北アイルランドはイギリス連邦(U.K.)に属している。
 アイルランド人は、ジャガイモ飢饉で強制的にアメリカに送られたものもいたように、苦しい暮らしから逃れるためにアメリカに移住したのだが、アメリカに多くの影響も及ぼした。そのことはアメリカ歴代の大統領のうち、その先祖がアイルランド出身者だったものが16人もいることにも表れている。ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハウアー、ケネディー、そしてクリントンなどだ。こうしてアメリカとアイルランドは太い絆で結ばれている。

 彼らの独特の文化…特に音楽は素晴らしい。バン・モリソンやメアリー・ブラックなど、その文化を受け継いでいる歌い手がいる。エンヤもそうだ。パブを巡ることによってこうした場面にも遭遇できるかもしれない。
 そして自然だ。アイルランドのいたるところに存在する、素朴というか、荒涼とした自然にも触れてみたい。


政治問題にも興味がある

 ベルファーストなど北アイルランドはイギリスの支配下だが、なぜ独立運動が存在するのか、その理由も肌で感じてみたい。デリーでは34年前にデモ隊がイギリス降下部隊によって弾圧され、多くの犠牲者が出た「血の日曜日」事件(1972/1/30)が起きている。
 イギリスとアイルランドとの関係を如実に物語っている事件なのだが、平和的な雰囲気のもとで行われたデモ行進だったが、無届けだったため弾圧され、犠牲者は14人となった。その殆どが10代の若者だったという。

 この事件の1年前の1969年からイギリスとの連邦関係の継続を望むユニオニストと呼ばれるグループと、アイルランドとの統合を望むナショナリストと呼ばれるグループが対立し、双方の過激派による武力闘争が続いていた最中に、このいまわしい事件は起こった。そして、この事件をきっかけにイギリスは北アイルランドの直接統治を開始し、紛争は泥沼化。以降90年代にかけて3000人もの市民がテロの犠牲になっている。

 デモ行進は何を要求していたのか。就職におけるプロテスタント中心の差別的雇用の撤廃のほか、プロテスタントに7割が割り当てられる住宅割当差別の撤廃、そして選挙投票差別の撤廃だったという。デリーでは、市南側のカトリック系市民2万人の地区から8名、北側のプロテスタント系市民1万人の地区から16名の市議会議員を選出するという、一見して明らかなようにカトリック系市民の要求を市政に反映させるうえで大きな差別的選挙制度がまかり通っていたのだった。青年たちが先頭に立ったデモ行進はこうした非民主的な市民権の改善を求めていたのだ。
 プロテスタントはいわゆる「新教」でイギリス人の宗教、「旧教」カトリックはアイルランド人の宗教で、イギリスとアイルランドの対立は宗教対立の様相も帯びて複雑な様相を呈し、日本人には理解できない部分もある。



 あのイギリスがわずか30年前までこうした非民主的政策をとっていたこと自体大きな驚きだ。アイルランド西部のディングル半島の荒涼とした土地にしがみついて暮らす19世紀末の農民を描いた "Far and Away"(邦題「遙かなる大地へ」)。地代を払わない農民の家を地主が焼き打ちするシーンが印象に残っているが、こうした地主を使って「支配」するイギリスのやり方が、つい最近まで変わっていないということだ。

 こうした市民権の平等を要求した非暴力のデモを弾圧し、多くの死傷者がでたことをきっかけとして、反英感情がアイルランドに広がった。アイルランド人はこの事件を忘れないために、あるいはそのことを後世に伝えるために「血の日曜日モニュメント」を立てたり、事件をテーマにした歌も複数生まれている。"The Town I Love So Well" という歌は横井久美子も歌っているが Phil Coulter というミュージシャンが作った。また "Sunday Bloody Sunday" と事件名がそのまま曲名になったロックバンドU2の曲や、ジョン・レノンも "Bloody Sunday" を歌っている。現地でこうした曲が聴けたらいいし、事件のモニュメントは是非訪れたい。そしてあの事件のあと、デモ行進で掲げられた要求は改善されたのか、この目で見てみたい。

 司馬遼太郎は「愛蘭土紀行」でアイルランド人は日本にとても親近感を抱いていることの理由として、日本が第2次世界大戦でイギリスを相手にして闘ったからと書いている。つまりはアイルランド人は、700年以上にわたるイギリスに刃向かうものは自分たちの味方だという短絡的な意識もあるというのだ。支配された恨みはまだまだ消えないし、続いている。


 また、この国がウイスキーを生み出した母国だということ。スコッチウイスキーが世界を席巻する19世紀までの約千年の間、「ウィスケ・バハ」(生命の水)とアイルランド語で呼ばれる酒がアイルランドとイギリスで愛されていた。だからウイスキーの故郷の旅を楽しむこともできる。

サイクリング計画と自転車事故

 知らなかったことだけど、自転車に不可欠なチューブ式タイヤは1888年にベルファーストの獣医だったスコットランド生まれの John Boyd Dunlop が発明したのだ。彼は息子の三輪車で最初のテストをしたという。ダンロップという名は自動車タイヤで世界中に使われているが、もとはベルファーストで発明されたものだったわけだ。この人のお陰で、世界中のサイクリストだけでなく、乗り物を利用する人たちが恩恵を受けているのだ。1世紀を越える昔の発明品ながら、その原理は今日も変わっていない、すばらしい発明というほかない。

 今回のアイルランドツアーはベルファーストから出発し、反時計回りに東海岸を北上し、西に向かって、主な景勝地を楽しみながら、南下して Cork あたりか、または Dublin まで北アイルランドとアイルランド共和国を周回し、Dublin にしばらく滞在してから、ロンドン経由で帰国するというものだ。走っているだけで3週間以上、滞在期間を入れて約1カ月近い旅となる。宿泊施設は、通過するルート沿いの町に複数のB&Bがあり、さらにホステルという宿泊施設もあるので、予約なしでも問題ないと判断した。

 今回はアイルランド一周でもへこたれない体力が必要だから、気合いを入れた練習的走行を繰り返してきた。
 しかし2006年のゴールデンウィークの直前、不覚にもアクシデントに遭ってしまった。それは津久井湖と宮が瀬ダムを巡るロングランがほぼ終わりかけた午後2時前だった。鶴川街道の鶴見川近くの交差点手前で信号待ちをしているトラックの合間からスクーターが飛び出してきて、車列の左側を並走していたボクは、そのスクーターと90度の角度で衝突し、飛ばされてしまった。この予想もしない事故で身体こそ擦過傷程度ですんだものの、フレームが3個所にわたり座屈した。大破である。
 この事故のため、フレームの再オーダーからやり直しで、完成まで約2カ月間かかることになった。その間、友人のスポルティフを借り受け、ランドナーと同じペースで走ることができたので、体力低下は避けることができた。そして、ようやく手元にランドナーが戻って来たのは、出発の10日前だった。それから、1週間かけて試走やメンテナンスを行い、3日前に成田に輪行仕様で託送した。





旅のルートが完成

 一日に走る距離は100km前後と決めている。それ以下だと、能率が上がらないし、以上だと疲れてしまう。しかし実際に100km前後のルートを組むのは難しい。理由は1日が走り終わったときに、泊まることができる町があることが条件となるからだ。
 最終的に18のルートを組み、これをGPSに転送し、その都度、ナビゲーションさせるのだが、GPS容量の限界に近づいた。
 こうして完成したルートのうち、長いものは KenmareからBantry間の129kmで、ほかに、90km以上走るルートが延べ10日間ある。ルートの約半数が長距離サイクリングとなるので、相当の覚悟と健康管理も重要となる。無理をしないで、疲労が蓄積すれば、休養日を設ける以外にない。ルートが長いからといって、途中で打ち切れない。
 
 1日100km前後というのは、日本で日常的に走り込んでいる距離であり、問題はないのだが、それが連日となると話しは別だ。日程に余裕をもったスローペースで行くしかない。そのほか雨の日のこともあるだろう。
 ともあれ、こうしてPC上で行程をシュミレーションしてルートが作れるのであるから、随分と便利になったものだ。
 さらに今回から、GPSをカラー表示ができる新しいタイプのものに変更した。試用してみてわかったことだが、これは従来機種の単なるカラー化ではなく、様々な新機能が付いており、その視認性の改善とともに使いやすく配慮されている点が嬉しい。
 今回のツアーで、BelfastからDublinまで、アイルランドをCの字の形のように走ることができたら、その合計距離は約2000kmとなる。日本でいえば、北海道の根室から九州の長崎までを直線距離で結んだ距離とほぼ等しい。





●"Erin go Braugh"

 "Erin go Braugh" とは" Ireland Forever "「アイルランドよ永遠に」の意味で、古来からいろんなシーンで使われた特別な意味を持つゲール語のフレーズだ。祖先が暮らした孤島から本島に移住した上陸第一歩にこの言葉が使われたというし、19世紀初めのアメリカ・メキシコ戦争でメキシコ側についたアイルランド出身のカソリック教徒はこの旗を掲げて闘ったという。
 またアイルランド独立戦争では、このフレーズがスローガンとなったが、この場合、意味は "Ireland be free " だ。
 つまり、アイルランドの愛国心を一言であらわすフレーズだと解釈しよう。
 今日でも、アイルランドのpubには "Erin go Braugh" が壁に掲げられているという。同名のスコットランドの伝統曲もあり、透明な空のもとアイルランドの自然の中を流浪する雰囲気の歌だ。
 というわけで、今回のアイルランドの旅のテーマは "Erin go Braugh" がふさわしい。

●自転車とともにベルファースト到着
2006/07/06(Thu) 第 1日 出発日

 成田の南ウイングで託送してあった自転車を受け取り計量してもらったら総重量は17.3kgだった。
 定刻に成田を離陸したアシアナ機は激しい雨のなかインチョン到着。
 待つほどの時間もなくインチョンでの乗り継ぎは短く、ロンドン行きも定刻に離陸。10時間後にはロンドンに着いた。
 自転車の託送は DoorSide というタグをつけて別扱いされ、うまくいった。ヒースローは晴だが、暑い。入国審査は長蛇の列で、聞かれたことはアイルランド島に何日滞在するかということのみ。係官はボクがヘルメットを持っているので、サイクリングだと思ったという。隣ではもう10分間以上も事情を聞かれている若い娘がいたが、職探しに来る他国人を警戒しているのだろうか。自転車はすでに別口からでていた。入国審査カードに初めて「年金生活者」と記入する。
 ホテルの送迎バスを呼ぶのに電話用の小銭がなく、それを作るために売店でバナナや水を買う。ホテルとの連絡はとれたが、ターミナル1の向かい側の駐車場の5階のエレベータ前で待てというので、何度も聞き返す。実にわかりにくいその場所を探して待っていても、バスがなかなかやってこないので、再度電話してどれぐらい待てばいいのかと聞き返す。数分待てと返してくる。ホテルは Heathrow Lodge 35ポンド(7600円)はモーテルと看板があり、クルマで泊まる人がほとんど。夕食(15ポンド)は向かいのパブでギネスの生に挑戦。オムレツの味はもうひとつというところ。

2006/07/07(Fri) 第 2日
London-Belfast
 レセプションの女性が昨夜予約してくれたタクシーは5時丁度にやってきて、ターミナル1の出発階に横付けしてくれた。早朝、ごく短い距離を運んでくれた運転手にチップを渡す。この旅でチップを渡したのは、結局このときだけだった。考え方としては契約の対価として料金を支払っているので、それ以上のサービスというか、特別のことはなにもなかったので、チップの必要がなかったということになる。
 bmi航空の係員が先にネットでチェックインをというので、それをすませてから、自転車を預けるが、ベルファーストまで15ポンド(3300円)取られる。しかも別のドロップ窓口まで運ばされた。
 ロンドン・ベルファースト間はエアバスで、想像以上に頻繁な利用客があった。空から見たベルファースト周辺は想像以上に起伏があった。ベルファーストは国際空港もあるが、このシティー空港もなかなか立派だ。bmi機は予定通り午前8時すぎに着陸した。
 自転車は一般のバゲージ口からでてきた。早速、バゲージルームで自転車を組んでみた。というのも一人旅の無防備状態で持物を広げたくないし、人だかりもイヤだし、かっぱらいはなおさらやっかいだと考えたからだ。ここにはお誂え向きのガード…といっても超美人…がいたし、おまけに大きなゴミ箱もあり、作業に集中できた。点検の結果、チェーンガードの一部が飛行中にチェーンが当たり、かなりへこんでいたが、フレームには直接影響をあたえるものではないので安心した。やはり梱包は厳重にする必要がある。特に今回は飛行機を3回も乗り継ぎしたのだから…。
 空港前の幹線道路は激しいクルマの流れで、この横断は危険を極めた。また平行して走る鉄道にも踏切はなく、無人駅の急階段をかつぎ上げるはめとなった。自転車にたいする配慮がないことは、この経験でわかってしまい、この国は、ほぼ日本と同じ感覚で走る必要があるように思った。



 交通ルールも右側通行で違和感がないものの、交差点の通過だけはロータリー方式なので注意を払う必要がある。生活道路を走りはじめ、ようやく緊張感がほぐれた。GPSも問題なく作動し、まったく迷うことなくシティーセンターに向かうことができた。
 途中で、今夜の宿の候補の名前を示す場所がピン印でGPSに表示されたので、そのB&Bを訪ねたら簡単に部屋がとれた。まだ朝の10時過ぎだ。荷物をB&Bにデポして身軽になって街に出る。走りだしてからロンドンからやってきた身にとっては涼しすぎることがわかったが、あとの祭りだ。日本でいえば10月の空気のなかをTシャツ一枚で走る。旅行者向けのインフォメーションセンターは2カ所あり、大きいほうの北アイルランドのオフィスは充実していた。ここで、市内サイクリング向けmapをもらいLagan川を遡行することから始めた。自転車の走行チェックと明日からの足慣らしも兼ねて走ったが、川沿いにベルファースト市街が形成されたことがよく分かる。ものの10分も走ると緑が現れ、森となって、牛がいたり、川には白鳥がいたりした。想像以上にこの町は狭いことが分かった。途中で2度ほど驟雨に襲われたが人々は平気なもので、すぐに乾いてしまう。

 一旦中心部に戻り、アン教会やタイタニック号建造跡を訪れる。それからボタニックガーデンにある Ulster Museum を訪れた。恐竜などの自然史の展示はともかく、18世紀からの産業史や、なかでも戦争と政治闘争の展示はおおいに参考になった。アイルランド独立宣言書やデリーの紛争にまつわる資料もあり、「血の日曜日」事件30周年のポスターなども展示してあった。この島国の旅行の初日に、視覚的な知識を得られたことはよかった。
 宿 Helga Lodge に戻ると、女主人から日本人が泊まっているよと紹介してくれた。 その松田基夫という日本人から部屋に電話があり、ロビーに降りてこないかと云われ、ロビーで名刺交換したら、相模原にある麻布大学の博士で遺伝子研究のために毎年のようにベルファーストに来ており、ここが定宿だという。ここのクイーンズ大学と付属病院の市民病院の研究室で地元の医師と遺伝子の共同研究をしているという。
 まったく予想もしない出会いで、なんとなくウマがあい、向かいの先生が行きつけのパブでギネスのグラスを重ねた。
 団塊の世代の松田先生は、アイルランドを一周する日本人はおそらくあなたが初めてなどと、うれしいことをいってくれる。話は北アイルランドの最新情報から共和国や本国であるイギリスとの関係のことや、日本人観、日米関係など多岐に及んだ。帰国したら、大学でアイルランド一周旅行の印象などを学生に講演してくれないかと依頼をうけたが、アイルランドをよく理解し、愛する日本人とみた。旅の始めに、すばらしい知性を持ち合わせている人に出会えてラッキーだ。しかもほとんど先生の奢りで…ギネスをおごられた時はそれとなく返杯するというのがこちらの礼儀らしいが、早速それも実践した。
 明日は初めに先生の紹介で、先生の病院の変わった外観とアイルランド紛争の現場であり、今では落ち着きを取り戻し、観光コースにもなっている The paintings on the walls を駆け抜けることからサイクリングを始めよう。
 Helga Lodge 25ポンド。本日の走行距離 34km。サイクルメーターは34793kmよりスタート。

●北アイルランド紛争跡を見る
2006/07/08(Sat) 第 3日 

Belfast-Ballycastle
 朝7時半に松田先生と一緒に朝食をとり、8時半にB&Bの前で松田先生と記念写真を撮り、学生の前田君にも見送られ、再会を約束して出発する。
 まず先生の研究室があるベルファースト市民病院を外から見る。先生が云うように黄色い格子の確かに変わったビルだった。続いてベルファースト紛争の遺物である「ペインティングウォールス」を見る。バス通りを挟んで、それぞれの側の明快なスローガンや絵が描かれており、英連邦維持のユニオニストと共和国との統合を目指すナショナリストの宣伝合戦の趣だ。いまではここが観光コースとしてバスが巡ってくるのだから確かに平和が戻っていることを実感する。



 そして、いよいよアイルランド一周の旅のスタートである。
 ベルファースト市内からA2という幹線道路に沿って走る。GPSは正常に作動しており、地図を広げて現在地の確認といった面倒なルートファンディングも、その必要がなくなった。迷うということが起きないので、不安な感情になることもなく、大きな安心感がある。それだけでも嬉しいのだが、さらにカラーGPSの視認性がとても良い。ベルファーストを出て10分もすると暑くなってくる。早速腕まくりだ。新しい建物と教会の古い建物が混ざりあい、独特の雰囲気がある。今日は快晴だ。
 市内の道路はハンプや狭柵があり、歩行者への配慮が行き届いている。
 キャリック・ファーガスまではすぐだった。いわゆる海から攻めてくる敵をこの城で迎え討つというのが城の役割で、城はイギリス側と対峙しているから、どこと戦ったのだろうか。城の横の港からは土曜日とあって地元のヨットクラブの人たちが次々と港を出てゆく。そのそばで釣りを楽しんでいる人たちもいる。(22km 9:40)
 順調に距離を稼いで55kmを走った。北東方向にラスリン島が見えてきた。その島と向かいあっているのが、到着地の Ballycastle だ。
 天気は高曇りに変わり、それがいつの間にか、低く垂れ込めた雲となる。なだらかに続く丘、その丘の斜面には石や低い灌木…いわゆるヘッジで区切られ牧草が茂っており、羊や牛が居たりする。これが北アイルランドの風景だ。たまに道路の警告標識に牛の絵が描かれていたりする、よく整備された海岸道路が海と陸をわけている。
 次々と巡ってくる風景に飽きるということがない。すこし走ってはデジカメのシャッターを押すという有様で、なかなか距離が延びない。アントリム渓谷 Glens of Antrim を通過しているのだ。



 ある小さな港町で休んでいると、向こうから白バイがやってきて、クルマを次々と止めている。要人でもやってくるのか、それともテロかと見ていると、目の前をサイクリングレースの集団がサッーと過ぎていった。その数およそ20人。白バイに先導されてのレースとは、この国ではサイクリングへの理解というか、社会的な地位が高いと見た。
 サイクリストについて云えば、土曜日のこの日、何人ものサイクリストと出会ったり、追い抜かれたこともたびたびあった。そのほとんどは休日サイクリストで挨拶なしだ。なかには指を突き立てている人もいるので応じる。旅行者といえば、若い女性がキャンピング装備でやってきたが、一言交わして先を急いだ、その後90km地点で雨が降って来て、おまけに急坂の連続となったが、彼女はどうしただろうか。道はB92からA2に戻った。なだらかな丘の尾根上を走っている。はてしなく直線の道が続く。両側の牧草地はまるで高原の自然保護区のようで、名も知らない可憐な草花が咲いている。なかでもアザミに似た花が目立つが、これは羊が食べないため。チングルマやコケモモに似た地衣類の群生に目を奪われる。
 クルマはスピードを落とさないで、この素晴らしい自然との対話を拒絶するように先を急いでいる。青春時代に口にした「Glen to Glen」…ダニーボーイの一節…が口をついてくる。まさにあの世界が目の前に広がっている。
 小雨のなか、長い丘を下り、今日の目的地の Ballycastle に着いた(116km 16:30)。この町はちょっとしたリゾート基地のようで、観光客が群がっているし、対岸の Rathlin Island やイギリス本土にわたるフェリーもある。宿は2軒目で安い部屋が簡単に見つかった。Corratavey House という B&Bだ(21ポンド)。



 夕食は近くのホテルのレストランで牛肉と麺類との合わせ煮込みのようなものをオーダーしたが、結構旨かった。ビールはギネス以外を試してみたが、ぴったりという銘柄は、まだ見つからない。
 このレストランでベルファースト近くに住んでいるという男性から声をかけられた。彼はボクの履いているサイクリング用のシューズを見ていたのだった。俺はそいつを店で売っているという。そしてシマノはいいよと日本の自転車部品メーカーの名前をだして褒める。ボクも調子に乗って「シマノをどうぞ」とおどけたら、「ミスター シマノ」と云われてしまった。自転車をスポーツとしてやる人々のなかで、「シマノ」のブランド名を知らないものはなく、有名な自転車レース「ツード・ド・フランス」でもほとんどの選手はシマノの部品を使っており、この世界では超有名なのだ。さすがに疲れたので早めに就寝する。

●世界最古のウイスキー工場
2006/07/09(Sun) 第 4日 

Ballycastle-Limavady
 夜中に雨が降ったようで、あたり一面しっとりとしている。晴れていたと思ったら、たちまち曇り、そして雨…と、この島の天候はめまぐるしく変わる。テレビの天気予報でも雲の画像がまるで羊の群のように小さな固まりでアイルランド島に散らばりながら移動している。日本の梅雨前線のように長い帯状になって雲がやってくるパターンとはかなり違うことを発見して納得した。
 宿では洗濯物を乾かしてもらったり、走りやすいルートを教えてくれたり、とても親切だったが、なんとルームキーをポケットに入れてまま出てきてしまった。気がついたときはかなり走ってきたあとだったので、デリーあたりから郵送するほかない。悪いことをしてしまった。
 今日は途中で立ち寄りたいところが3カ所もある。
 7kmを過ぎた地点ではラスリン島が目前に長々と横たわっており、目と鼻ほどの先には羊島と呼ばれているテーブル状の面白い形の島があって、右側からは半島のように岩が連なって突き出ている。この一帯は国立公園として保護されており、観光スポットでもある。その目玉の一つが「ロープブリッジ」と呼ばれているもので、吃立した岩と岩との間を海面から100mほどの高さに吊り橋が架けられている。長さは50mほどで幅は両側のロープをもって渡らねばならないので、人ひとりがやっとだ。行き先は岩ばかりの小島なのに、何故危険な吊り橋を架けたのか。案内書には、その昔、連なった岩の先は鮭がやってくる好漁場だったので、地元の漁師が架けたと説明されていた。アイルランドの人々が厳しい自然と向き合って暮らしてきた一つの証だと受け取った。アイルランドの自然は美しく、そして厳しい。



 さらに数キロ。こちらは日本でも有名なジャイアント・コーズウエィ Giant's Causeway という奇岩が作り上げた所だ。溶岩が冷えて固まる際に、ある作用が働いて、6角状に形成されることは日本では柱状摂理と呼ばれ、各地に見受けられるが、ここはその大規模なもので、こちらもナショナルトラストとして保全されている。小さな湾を囲む全域が規則正しい奇怪な岩で覆われているし、一つひとつの岩も日本のものよりも大きく直径が数十センチで、しかも鉛直状につき立っているので、観光客も安定して岩の上に乗ることができる。まことに自然の造形の妙というほかないが、ガイドは神のなせる技として解説していた。
 奇岩公園の規模が予想以上に大きかったので、かなり時間を費やしてしまった。そして向かった先が、日本ではあまり知られていない、世界初のウイスキー醸造所、ブッシュミルズ・ディステラリー Bushmills Distillery だ。日曜日なので休業しているが、平日はもちろん世界の50カ国にむけて輸出している地元の伝統産業でもある。ウイスキーといえばスコッチが有名だが、こちらはその上を行く世界初なのだ。約1時間にわたりビデオと案内人の説明で分かったことは、ウイスキーはウエスケ…生命の水…と言われ、私たちの祖先が世界で初めて作り上げた。その特徴は蒸留方法にあり、アメリカのバーボンは蒸留回数1回に対し、スコッチは2回。それに対して我々は蒸留を3回やってアルコールの純度を高めている。そうすると味はまろやかとなり、香りも上品となる。つまりウイスキーのなかでも高級品だという説明だ。最後に試飲コーナーがあり、数種類の製品の違いを舌で味わってもらおうという趣向なのだが、こちらはサイクリングの途中なので手を挙げなかった。代わりに小瓶のセットを買い求めた。この旅の途中の早い段階でなくなるだろう。ギネスもアイルランドの酒の文化だが、ウイスキーも負けていない。ますますアイルランドが好きになりそうだ。
 こんな調子だから、距離は延びない。とてもデリーまでは届かず、途中の町で宿探しをする。Limavady というデーリーの手前、27kmにある町だが、ここに到着するまでに長く単調な200mほどの登りもあって疲れてしまった。デリーまで届かないのもやむをえない。初めて農家が副業でやっているファームハウス…WHITEHILL FARM (23ポンド) に泊まった。B&Bと違い、すこしつっけんどんな感じがしたが、食事は近くのホテルのレストランを紹介してくれた。大きな鱒のソティーとサラダ、そして今夜は最初からギネスで疲れた体を癒す。このホテルでドイツから来たのと声をかけてきた男がいた。いや日本からだといい、島を自転車で一周していると云ったら唖然とした顔をしていた。これがたぶん家族連れの普通の人の感覚なのだろう。本日の走行、75km。

●「血の日曜日」記念碑
2006/07/10(Mon) 第 5日 

Limavady-Derry
 朝、ファームハウスの主人とおぼしき男性が声をかけてきた。日本人も天国を信じているのかという難しい質問だ。たぶん熱烈なカソリック信者なのだろう。地獄もあるよと適当な答えをして、曇空の下を漕ぎ出す。
 今日はデリーまでの短く、気楽な走りだ。国道A2を走り、またたく間にデリーが近ずいてきた。道路がルートと異なる方向に誘導するので、それに従ったら、入江をまたぐ長い橋に出会った。ここからのデリーの街の眺めは素晴らしい。橋のたもとから、入江に沿って続いている散歩道に入り、そのまま市内に入る。クルマならこんな芸当はできない。素晴らしいアプローチだ。デリー到着(34km 11:20)。
 デリーの旧市街地は城壁に囲まれている。しかも城壁自体が急な斜面を駆け上がって作られている。旧市街が入江から丘の上まで広がったその全体を囲いこんだ結果なのだろう。城壁は概して低く、これで防衛の役割が発揮できたのかと思うほどだ。

 観光客が城壁の上を歩きまわっている。ダイヤモンドと呼ばれる四角い広場が市街の中心で、急な斜面を登りきった所にある。B&Bのキーを返すために郵便局をさがしていたら、ある女性が、あなたが橋を渡っているところを見かけましたと声をかけてきた。自転車で旅をしているのが目立つらしい。また興味深げに一通りの質問を浴びせられる。ボクも調子に乗って丁寧に答える。生粋のデリーの女性のさわやかさが印象に残った。名前は忘れてしまったけど、デリーの女に特有の名前よと云っていた。郵便局ではB&Bの不完全なアドレスしか分からないので、そのままキーと紙風船を入れて送っておいた。小さな町だから届かないということはないだろう。



 旧市街そのものはプロテスタントが暮らす地域で、丘を下った谷間と向かいの斜面がカソリックの地域だ。当時の勢力はややカソリックが多かったにもかかわらず、政治的に、また雇用面でも差別されていた。30年ほど前のことだ。前書きで書いた通りの差別を解消する「市民権協会」が呼びかけた、いわゆる無届けデモにカソリック系というかナショナリストの多くの市民が参加したのだが、デモの先頭にいた10代の若者13人がイギリス兵に撃たれて殺された。血の日曜日事件である。その記念碑が谷間の市街地に建っているので行ってみた。記念碑… Bloody Sunday Memorial には犠牲者の名前が刻まれているのみで、花束が添えられていたが、近くに、この事件の博物館があるというので、町の人に教えられながら行ってみた。博物館といっても、この事件を風化させないためにNPOが作った小さな展示場兼活動センターのようなところである。しかし展示物からは、事件の悲惨さや、イギリス軍の不当性について、強いメッセージが伝わってくる。質問しようとすると、語学力の程度を見抜かれたのか、これを読めと、日本人の書いた北アイルランドに関する本を渡され、該当の個所を読んでみる。ついでに自転車は盗難のおそれがあるのでと、内部に運び入れてくれた。ビデオでも事件のことが分かるようになっている。最後に、市民権は今ではどうですかと遠慮がちに質問したところ、完全に平等になっているとの答えが返って来た。民主主義のために闘った13人の血は無駄に流されたのではなかった。記念品を求め、釣り銭をカンパして、センターを後にした。

 デリーの宿も簡単に見つかった。目星をつけておいたB&Bに対してナビゲートするだけで間違いなく行き着くことができた。すごく効率がいい。カソリック地域にある The Saddler's House (30ポンド)というB&Bで、トイレ&シャワー付きの部屋だった。
 午後の早めに今度は歩いて城壁のある中心部に出かけ、インターネットでメールチェックをしたり、城壁にあがったり、パブでギネスのハシゴをしたりして楽しんだ。本日の走行は38km。

●知らない間にアイルランド共和国へ
2006/07/11(Tue) 第 6日

DerryーAnnagry
 朝、出かける時に見送ってくれたB&Bの主人は、今日は雨になるかも…、と親切にアドバイスしてくれた。もう雨は慣れっこになっている。アイルランドの雨は降ったとしても、ものの10分もすればあがってしまう。その繰り返しばかりだということがわかった。
 デリーを出て、いつの間にかアイルランド共和国に入ってしまっている。いきなり、「ウエルカム・ドネゴル」と記された立派な標識でそのことが分かった。国境線は地図の上だけだったのだ。



 しかし昼飯用にと立ち寄ったガソリンスタンドが経営しているミニスーパーでサンドイッチを買ったところ、支払いはユーロに変わった。国境はなくても経済活動はもう変わっている。このあたりは日本人には直ちに呑み込めず、ポンドからユーロへの切り替えに戸惑う。
 国道N13号。スピード制限は時速100kmだ。そこを11kmから20kmののろのろ運転で進む。一面のジャガイモ畑がゆるやかな丘にうねっている。家のなかで電話中の女性が手を振って挨拶してくれる。長旅のペダリングは膝に無理な力を加えないで、こまめにシフトダウンすることだと悟る。リターケニーという町を通過する(37km 11:13)。
 今日はいわゆる観光スポットは特に予定していないが、長いルートの途中にこの国有数の国立公園地域 Glenveagh National Park を通過する。走るにしたがって風景が徐々に変化して行く、道は少しずつ登り坂となり、道幅も狭く、センターラインもなくなってきた。民家などの建造物が見あたらなくなったと思ったら、国立公園の入り口だ。広大な国立公園内を見学する時間がとれないので、資料だけをビジターセンター(66km 13:08)で求めた。ついでに公園名の発音を教えてもらったら、「グレンベイ」だという。ゲール語は読めない。
 信じられない風景が広がってきた。低い丘が連なり、樹木はなく、丘は一面の草で覆われている。神の造形の妙技というべきか。この透明な風景を見て、これはエンヤが歌っている世界だと感じた。



 公園内に入らなくても、道路沿いの素晴らしい風景がどこまでも続く。そのうち向かい風が強くなってきた。よく見るとはるかな丘のうえで発電風車が勢いよく回っている。へろへろ状態でゆるやかな峠(285m/h 14:45)を越える。下りにさしかかるとこちらを狙っているカメラがあった。止まって声を掛けたら、コーヒーを飲んでいかないかと誘ってくれた。大型のキャンピングカーでヨーロッパ中を巡っているスイス人夫婦だという。
 ここでもいろいろと聞かれた上にサイン帳になにか書けというので、長い坂道をよろよろと登っていたら、日本人って案外だらしがないのねと、アイルランドの風が娘のように声を掛けてきたと思ったら、助け励ましてくれる人が現れた…とたいして意味のないことを書いてみた。彼のサイン帳はほとんど英語で埋まっていたから、日本語で書いた。いつでもいいから、写真を送ってと名刺を渡して別れる。
 国立公園を下ったところにあることが分かっていたエンヤの親父のパブ(103km 17:05)を探しあて、うまく行けば泊まれるかもと思ったが周辺のB&Bに部屋がなく、パブをカメラに収めて近くの町に向い、ANNAGRY という町に落ち着く。
 どんな小さな町にもパブは必ずあるので、そのうちの一軒に入る。入口の席にイフェンという小さな男の子連れの家族がいたので、紙風船をあげる。これがきっかけとなって、パブでの交流が始まった。バーを見上げると自転車の玩具が何台も並んでおり、写真を撮っているとバーテンダーがここにもあるよと別のコーナーに連れていってくれた。そして壁に架けられたサイクリストの写真まで見せられた。そしてその男に電話して、変わったサイクリストが来ているとでも言ったのだろう。



くだんの男がやってきて、マイケル・シャーキーと名乗る。男はレーサーとして地元では有名らしい。写真はあるイベントで彼がガン患者救済のためのチャリティーに出演したものだった。
 話はそれだけではない。別の男性は明日は長い距離を走るのだから俺が一緒に走ってやるといい、ギネスを奢ってくれた。ボクは腹がぺこぺこだというと、地元のテレビ局でビデオカメラを回しているという別の男…ゲール語で「コナル・ドウィ」がホテルのレストランに電話してオーダーストップを延ばせと頼んでくれる。もうたいへんな盛り上がりとなった。小さな紙風船がこんなすばらしい夜を演出してくれるとは…。はたして51歳だといった男は明朝9時に現れるだろうか。
 ほかにも、ホテルのレストランでの交流や、B&B Danny Minnies 65e のママやその亭主との交流もあるが、書ききれない。本日の走行は109km。

●生きているゲール語

2006/07/12(Wed) 第 7日

Annagry-Donegal
 スラチアと名乗る51歳の男は翌朝現れなかった。酔っぱらったうえの空約束か、あるいは飲み過ぎて起きられなかったのか定かではないが、そのあたりの機微が面白い。朝、B&Bの請求書をみると見慣れない言葉が綴られている。メイドに聞いたら、それはゲール語で「ありがとう」という意味だという。彼女に発音してもらったら「グルミヤマイガリー」と言った。なんとなく日本語の「ありがとう」と似ているではないか。そこで日常的にゲール語を使っているのと水を向けると、私はイギリスから来たので駄目だけど、彼女は出来ると仲間のメイドを紹介した。そのメイドに聞いてみると、友達同士や家族間で使っているという。ゲール語は生きているのだ。道路標識も英語とゲール語で併記されていたし、学校の名前はゲール語だけだったりする。Donegal のBERでもバーテンダーがゲール語で客と早口の会話をしていたが、ポンポンと跳ねる感じの明るい響きがあった。
 曇天のなかをスタートする。大西洋岸を南に向けて下る。湖だと思ったら、海だった。地図をスケールダウンしてみると狭い入江があって気水湖のようになっていることがわかる。漁港にも利用できないような岩礁が連なっている。海辺の寒村という雰囲気だ。途中、中年女性のサイクリストと行き合う。
 丘の裂け目を泥炭層をくぐってきた茶褐色の水が流れていて、数メートルの断崖を形成している。崖上には紫の花が咲いていて、羊が2頭崖上で草をはんでいる。すこし離れた平らな草原には羊が数十頭草をはんでいる。はるか向こうには低い山が幾重にも連なっている。右には廃屋があり、道路は緩やかに延びている。
 Donegal着(78km 13:50)。シティーセンターで 「Donegalの旅人」などのCDを求める。
 夜はライブがあるというので、出かける。10時半からという遅い時間に始まった。でも空はまだ明るい。3軒ハシゴしたが、最後のパブでの演奏が最もよかった。パブにはアイルランド伝統音楽の表示があり、ライブの歌手もトラックドライバーのような顔つきで歌っている。客もだんだんと乗ってきて最高潮になった。ほとんどがゲール語の歌で、なんとなく雰囲気が伝わってくる。これはアイルランドの空気を吸い、風と闘ったから分かることだと思う。JIMMY O REGAN というひたむきな男に惚れ込み、本人からCDを買った。ここでも、知り合いができてしまった。ゴールウェイから来ている男性だが、ゴールウェイでもライブが聞けるところもあるよ教えてもらった。



 12時になった。ライブはアイルランドの国歌の演奏に変わった。酔っぱらい全員がふらふらと立ち上がり歌う。日本では考えられないことだが、これが愛国心の発露なのだろう。アイルランド国歌は、イギリスから独立を勝ち取った兵士を称える歌なのだ。国民みんなが愛している国歌がある。歌えない国歌を持つ日本人は哀れだ。B&B Drumraine 45e

●美人のヒッチハイカー
2006/07/13(Thu) 第 8日

Donegal-Sligo
 予定より一日遅れてしまったが、長い旅は途中でくたばらないことが肝心で、今のところ順調に進んでいる。
 同宿のオーストラリア人夫婦はダブリンからダブリンまで、レンタカーで10日間の旅だと言っていた。自転車はその三倍かかることになる訳だ。
 ロータリー式の交差点にも慣れたけど、たまに自転車を無視してつっこんでくるのもいるので、注意が必要だ。
 オーストラリア人夫婦の車が追い抜いていったが、奥さんは窓を開けて手を振ってくれる。可愛い美人のヒッチハイカーが手を真横に差し出している。乗せてやりたいが、それではこちらが持たない。若い女の一人旅でも安全だというわけだ。リトリウムの美しい海岸線を行く。Bundoron という荒々しい海岸線を通過する。もう大西洋だ。

 


 交通事故を見てしまった。可愛そうに少年が担架で運ばれている。見通しのよい峠の緩やかなカーブでなにが起こったのか。
 アイルランドの詩人イェイツの墓がある教会に立ち寄る。
 スライゴーのインフォメーション到着(69km 13:40)。その後、市内を回りB&Bを探したが、ほとんど空き部屋なし。探し回って、すこし離れた丘の上に老夫婦が経営しているB&Bに空き部屋があった。しかも33ユーロだという。明日は朝食抜きなので、交渉して28ユーロで済んだ。本日の走行、86km。


●多くの発見がある自転車の旅
2006/07/14(Fri) 第 9日

Sligo-Westport
  早朝にスライゴーを出る(05:30)。今日はWestport まで100km以上走らねばならない。



 アイルランドは高速道路はほとんどないが、国道はとてもよく整備されている。たいていはセンターラインか、または分離帯がついていて制限時速は100kmだが、路側帯が走行レーンと同じ幅があり、自転車は安心して走れる。もちろんたまに狭い道路で路側帯がとれないところもあるが、トラックドライバーは心得ていて、無理な追い越しをしないで減速してくれる。公共事業のありかたについて、どちらの国の方がいいか。考えさせられる問題だ。
 ネクタイを締めて背広を着てトラクターを運転している初老の男性がウインクしてくれる。35歳ぐらいの美人のサイクリストと行き会う。お互いに笑顔で手を振りあっただけだったが、彼女も完全装備だった。
 日本では10月の晴れた空の下というような、やや肌寒いもののアイルランドの空気は素晴らしい。昨日も今日も快晴に恵まれている。
 途中で狭い角度のY字分岐があり、間違えて大きく迂回するルートに入ってしまった。引き返しが面倒なので、GPS上でもとのルートとの合流を確認してそのまま進む。やはりGPSは便利だ。
 「田舎暮らし博物館」という変わった名前の国立博物館があったので、入ってみる。映画でみたキャンバスにタールで防水したボート、海を漂流する揺りかご、茅葺きの伝統家屋の模型、その他たくさんのアイルランドの昔の人たちの生活用具が展示されていた。祭り、葬式、農作業、籠編み、その他も展示されているが、当時の写真にもっとも心が動いた。多くの男は深い皺を顔に刻んでいたし、若い女性の指先も農作業でとても痛んでおり、みんな疲れた表情で仕事をしているのが哀れだった。ちなみにこの博物館は無料だ。管理費にそうとう経費がかかるとみたが、アイルランド政府はおおらかだ。



 昔の徒歩旅行と今日のバス旅行やレンタカーでの旅と、自転車の旅とを比べてみたい。
 自転車はその中間みたいなところがあって、よく「自転車でまあ…」などといわれるが、昔の人は、たとえば東海道五十三次などのように、大変な苦労を重ねながら旅をしたのであって、自転車はそれに比べると大変楽な移動手段であり、しかもGPSという文明の利器でナビゲーションしながら移動できるので、こんな健康的で楽な旅はないと思う。現代人は、日本人に限らず、ほとんどの国の旅行者にとって、なにか大切なものを、どこかに置き忘れて旅をしているように思う。クルマやバスでは見落とすようなところも、自転車の旅では多くの発見がある。
 アイルランドも車社会で、クルマがなければ生活できないようだ。どの家にもクルマがあるが、ほとんどがコンパクトカーだ。ベンツを持つほどの余裕はないが、みんな豊かに暮らしているという印象をうけた。もっとも農家は、農機具のローンに苦しめられている印象がある。道筋には、クルマと家の FOR SALE が多く見られる。
 とある町の自転車店を冷やかすとほとんどがMTBで、旅行車はドイツで見かけた頑丈なもの。レーサーが2〜3台とういう感じだった。ボクの自転車を見てくれとマスターを誘う。いいバイクだと褒めてくれた。
 大型の草刈りカッターで作業している道路作業班に出会ったが、ゲール語でなにやら言っている。さっぱりわからない。
 丘の上の風の通り道に沿って発電風車が20基以上も並んで回っている。大西洋からの風をうまく利用しているようだ。
 リアキャリアのネジが振動で飛んでしまったので、今度は別の自転車屋で修理してもらった。ウイスキー、BLACK BUSH を買う。本日の走行115km、 8時間。B&B COPPERFIELD (36ユーロ)。


●ジョン・ウェインが乗ったタンデム
2006/07/15(Sat) 第10日

Westport-Galway
 朝日を受けて長く延びたボクの影を猛スピードのクルマが突き破っていった。まったく失礼な…。サイクリストに注意と書かれた標識があった。自転車に注意ではなく、人格をもったサイクリストに注意せよと書かれているところが気に入った。サイクリストとは何か。ある程度、長距離が走れて、クルマとも安全につき合える。そして外国でも自分の意志で目的地に到達できる力をもった人間として扱われるのが嬉しい。
 愛国心とは何か。このことを考えされられるアイルランドの旅でもある。茅葺きの家は過去のものではなく、売り出し中のものや、建築中のものもあった。
 とある街角で道路沿いの低いヘッジにシャツをはだけて腹を丸出しにしている男に声を掛けた。なにをしているのですかというと、彼は、ここは俺の家だと答えた。早朝の暖かな太陽を浴びているのだった。何歳かと聞くと61歳だと答えたが、もっと老けて見える。お前は何歳と聞くので、68歳だといっても彼は信じない。しかたがないので、パスポートを見せてもまだ納得いかない顔をしていた。もう一人の髭もじゃの大男は伝統音楽のミュージシャンだと言っていた。
 早朝に発つというのもなかなかいい。早めに着いて宿探しも楽だし、道草を食って世間話もできる。こうして徐々にコングに近づいてゆく。高い木があったり、牧草地が広がっていたり、羊が寝そべっていたり、林があったりする。これが「静かなる男」の舞台の村だ。とても広大な Ashford Castle だ。誘われるようにゲートをくぐる。今は古城ホテルとなっている。アプローチだけでも1kmはあり、うねっている芝はきれいに刈り込まれている。



 コング(49km)では2組のオーストラリア人夫婦のサイクリストと出会う。彼らもそれぞれ自分のMTBを持ち込んでいる。 Quiet Man Heritage Cottage がオープンするまで、隣の家で男の子に紙風船をあげたりしてすごす。記念館の内部は映画の撮影に使われた家具や衣装などが展示されていた、モーリン・オハラとジョン・ウェインが乗ったタンデム(二人乗り自転車)もあった。
 干し草が発酵した甘酸っぱい、いい香りも漂ってくる。地元の若い女性がサイクリングの練習だろうか、前を走っている。こちらは荷物が重くついて行けないので、引き返してきた彼女にそのことを言ったら笑っていた。
 ゴールウェイは大草原のまっただ中にある。まっすぐな道をだんだん近づいて行く。掘り起こされた泥炭のそばでトラックがタイヤをとられ、めり込んでいる。それを見ていると、運転手がケータイを持ってないかと聞いてくる。手に負えないので、救援を呼びたいようだったが、持っていないとサインを返した。
 ゴールウェイの中心部は観光客でごった返していた(93km 14:00)。ケネディー広場では人々が甲羅干しをしている。そのそばに小さなケネディーの横顔の像があった。彼はこのゴールウェイの出身なのだ。B&B ROSGAL (95km 15:20) 32e。


 この夜に食べたラムの煮込み料理はさっぱりとしていて美味かった。ジャガイモと人参、セロリ、それに香草を入れたものだが、たぶんくつくつと煮込んだものをいつでも食べられるようにしておく知恵から生まれた伝統食なのだろう。



 夜8時に始まるというので伝統音楽が聞けるパブに行ったが、なにも始まらない。ようやく始まったが10時半をすぎていた。演奏したのはスライゴーからやってきた父と娘のバンドで、特に娘の Siobhan の切れのある透明な歌声に聞きほれてしまった。地元の人やヨーロッパやアメリカなどからやってきた、何らかの形でこの国と関わりのある人達であふれかえった。年輩の人達が多いのは当然だが、若い人達も興奮して踊りまくるシーンも何度も出てきて、伝統音楽にたいする人気は衰えていないし、もちろんゲール語も歌のなかにしっかり生きていることがわかった。ここのパブは12時になってもお開きにならず、12時半に切り上げてきた。共和国のパブは禁煙が徹底していて、時々、席をはずす客がいるが、北アイルランドのほうはタバコは自由だった。


●ヨーロッパ最西の島イニシュモア
2006/07/16(Sun) 第11日

GalwayーInishmore-Galway
 ゴールウェイ湾の対岸には、明日走る予定の長い長い海岸線が延びている。気が遠くなるようだ。
 フェリー乗り場でオーストリアから来た女性と知り合いになれたが、それぞれが乗るイニシュモア島行きボートは別会社だ。残念。それにしても時間は適当だ。10時に出る船は30分すぎても出る気配がない。僕の船も同じで、時間が止まったようだ。
 やがてベタ凪の大西洋を真南に向かう。風は冷たいが、太陽は暖かい。ヨーロッパ最果ての島に向かう。晴れているのにいきなり海霧と遭遇、島は隠れてしまった。約40分かかって高速艇はイニシュモアに到着。GPSは本島からここまでの距離を42kmと表示した。
 紀元前500年に作られたヨーロッパ最大の砦が緩やかな牧草地の上に展開している。この島最大の観光スポット「ドン・エンガス」は有料で、高さ200mの垂直の断崖が大西洋と向き合っていた。人々は腹ばいになって恐るおそる海面を見下ろしている。海の向こうはアメリカ大陸。なんとも表現できない、巨大なスケールの断崖だ。ボクは自転車を持ち込んでいるから、このほかにも砦やこの島の人達の昔の暮らしが垣間みえる場所にも行けた。映画「アラン」に出てくる、巨大なウバザメと格闘した布張りのボートなどが朽ち果てていた。島の三少年が、タテ笛、アコーディオンを奏で、一人が踊っている。



 本島に戻るためフェリー待ちの時間を使って食事をしていたら、こちらに向かって手をふる女性が入ってきた。この島へ渡るフェリー乗り場で出会った女性だ。ギネスを飲みながら、話したところでは、彼女はウィーンの近くから来たハンガリア人で高校で体育を教えているという。顔立ちは小沢征爾を女性にしたようで髪はブロンドだが、ショートカット。47歳ということだが、化粧をしていないので少し老けて見える。
 紙風船をあげたり、写真を取り合ったりして時間をすごしたあと、ゴールウェイでの再会を約束しあう。遅れても待っているからと、自転車の僕に気を使ってくれる。フェリーを降りたロッシュビルからゴールウェイまでの40kmは、Ilus(イロッシュ)というこの女性に再会できるので足取りが軽かった。夜9時半に約束のスパニッシュ・アーチと呼ばれているゴールウェイのスポットで落ち会い、すませてきたという彼女を横に置いて食事をする。その後、彼女が知っているというパブでアイリッシュミュージックを楽しむ。このパブには僕の好きなメアリーブラックの写真も飾られていた。遂にアイリッシュミュージックの本場のパブにたどり着いたことを実感する。
 イロッシュはレンタカーでボクとは逆周りに島を回っており、たまたまお互いのダブリンの到着日がほぼ同じ7月末頃だったから、ダブリンで再会し、お互いの旅について話そうと約束しあった。この「アイリッシュ・ミュージック」という名のパブの前で別れたが、別れ際は抱き合うのが礼儀だろうと、そうした。101km。




●東欧の女性と再会を約束する
2006/07/17(Mon) 第12日

Golway-Doollin
 東欧の女性と偶然にも知り合いになれたゴールウェイを去るのは心残りだが、彼女はボクとは反対にアイルランド島を回っているので、知り合ってもすぐに別れるのは宿命だ。
 今日はドーリンというリゾート地までだ。到着までに標高225mの半島を越える。10%の急坂をヘアピンを繰り返しながら、ゆっくりと上る。
 この峠で今度は、オランダ人男性 Fred Daane が大汗をかいて登ってきた。僕はそんなに汗をかいていないのに、どうもペースが早いようだ。ユトレヒトの近郊に住んでいるといっていて、日本人にも興味を持っている様子で、写真に撮られた。名刺を渡したら、メールするからと言ってくれた。



今日は簡単に目的地のドーリンに到着(83km)。大西洋からの大波が断崖に打ちつけるすごい海岸線を見て、スイスから来たという若い2人娘と少し話す。彼女らはバックパッカーで、道ばたで腕を真横に突きだして、15分から45分間ほど乗せてくれるクルマを待つという。すごいバイタリティーだ。ここで、はじめてホステルに泊まる。Paddy's Doolin Hostl 4人の相部屋だが、15ユーロとさすがに安い。洗濯をする。
 今夜のスペシャルはやはりアイリッシュ・トラディショナルミュージックだ。この村には、観光客相手にいくつかのパブがあるが、そのうちの1軒に行ってみる。食事をしながら、待っているとやがて客が増え始める。そしてやはり午後10時にセッションが始まった。今夜はギターとフルート、それに縦笛の3人グループの楽器のセッションだった。

 ピッコロに似た縦笛奏者がメインで、ほかはそれに伴奏をつけている。早いテンポの軽快なリズムが流れたが、ほとんど同じ曲のように感じられた。
 舞台というものは特になく、客が使っていたテーブルを使ったが、それもシンガーミシンの足に天板をつけただけのものだ。客が、奏者にギネスの差し入れをしている。これも面白い。
 そのうちメインの奏者がスプーンを巧みに操って、叩きだした。二本のスプーンを膝の上でたたく楽器の一つとして用いる「スプーンズ」のことは、予備知識として仕入れていたが、目の前でそれが演奏されるとは思わなかった。観客の多くはアメリカ人で、このパブはアメリカからの旅行者が多いようだ。顔つきはアイリッシュだが、アメリカ人は概して太っている。アイルランドからアメリカに渡り、働いて、生活が向上したのか、あるいはファーストフードばかり食べているせいなのか。すこし考えさせられる問題だ。ここで背の高い、見るからにがっしりとしたアイルランドの男が握手を求めてきた。自転車で島を回るなんでグレートだと云ってくれた。筋骨隆々でレスリングでもなんでも出来そうだが、目は優しかった。


●「日本兵はすばらしい!!」?
2006/07/18(Tue) 第13日

Dollin-Kilrush
 朝、出発しようとしていたら、大きなトラックが止まりドライバーが降りてきた。挨拶をすると道を教えてくれと言う。外国人に道をたづねてどうすると思ったら、聞いてきたのは夕べ泊まった村だったので、北アイルランドからはるばるやってきたドライバーの役に立つことができた。
 走っているときはいつもヘッドホンからアイリッシュミュージックが流れている。孤独な一人旅で、音楽を聴きながらペダルを回すのは、気持ちが落ち着くし、周りの景色とサウンドがマッチしたときはすばらしい演出効果ともなる。エンヤの歌などが特に良い。効用はそれだけではない。走っているすぐ横を、かなりの騒音を響かせてクルマが追い抜いて行く、それもかなりの頻度だから、せっかくの美しい風景もぶちこわしだ。その騒音防止としてもサウンドは大きな威力を発揮してくれるわけだ。
 抜けるような青い空が続く海岸線。トラクターに麦藁を満載したおじさんが「グッドモーニング」と手を振ってくれる。
 道端に多くの動物の死骸を見かける。ウサギ、狸、狐、ハリネズミなどを見かけるが、これも自然が豊かな証なのかも。
 バスだと、いいなぁと思っても止まってくれないし、クルマも同じで、止められるスペースがないと「まぁ、いいか」となるが、自転車はいつでも、どこでも止められるので、いい写真が撮れる。
 朝日は真後から差し、ボクの長い影が延びる。東から西にむかって進んでいる。昨日、ベルリンから来た老夫婦と話していたら、おやじさんがドイツには自転車道が整備されているが、この国にはそれがないので走るのが大変だろうと言った。やはりドイツ人にはそうした環境が整っていることが自慢なのだろう。まさにその通りだ。



 石の採掘現場を通る。鉄平石よりすこし厚めのモハーストーンが、いまでも家々の壁や塀に利用されているので、建材として商売が成り立っているのだ。早朝、7時半頃、そのモハーの断崖に着く。凄い迫力だ。こんなすごい場所でテントなしで野宿している若者二人が寝袋から顔をだした。断崖の上をさわやかな風が東から大西洋へと渡って行く。
 たくさん仕入れたCDやパンフレット類、それに要らない衣類を東京に送り返す。59ユーロかかったが、背に腹は代えられない。例のグリーンの LAHINCH という田舎の郵便局から…。テープでぐるぐる巻きにされた表面に宛先をボールペンで書けという。ところ変わればなんとやらで、驚く。
 スカートをパンティーのなかに入れこんで、ブルーマ姿で走っている村の娘もいる。健康的な風景。前方に突然牛の群が現れる。別の牧草地に移動の最中のようで、近づいたときは移動はおわり、シャッターチャンスを逃す。キルキーの海水浴場に到着。広い砂浜で、みんな裸で楽しんでいる。
 キルラッシュに到着。(82km 14:00)
 今夜もホステル Katie O'connor's にする。さらに安く14.50ユーロ。
 ここまでで、延べ走行距離は1,012kmとなる。全行程の約半分を走ったことになる。
 夜のパブでもいろいろな体験をした。食事に Scampi というエビのフライを試したが、これはイニシュモア島で漁師がエビの身を取り出す作業をしているのを見たものだった。
 味のほうはあまりに淡泊すぎて、むしろ鱈のほうがよい思った。またアイルランドにはプチ poien と呼ばれる度数90度の強烈な酒があるようだ。
 パブで「日本人?」と声をかけてきたタトゥーをした男はポーランド人の二人連れだ。なんでもこの町に出稼ぎにきているという。ボクが日本で日本語を教えているウクライナの女性の話では、ウクライナ人はポーランドに出稼ぎに行くと言っていたが、ポーランド人はアイルランドで稼いでいるのだ。しかもポーランドの数倍の収入が得られるという。広いヨーロッパの経済格差を肌で感じることができた。



 またパブの前で上半身裸でタバコを吸っていた男が日本人だと分かると手招きして「日本の兵隊はすばらしい、第2次世界大戦のときに勇敢にイギリスと戦った」と言った。やはり司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」での指摘は本当だった。もちろんくだんのアイルランド人の言ったことは見当違いも甚だしいのだが、つまりそれほど、アイルランド人はイギリスにわだかまりを持っているということだ。ポーランド人も同じで、ボクがナチスのやったことをポーランドの人たちはよく許しましたねと言ったら、RYSZARD KROK という男は、でもドイツ人は嫌いだといい、もうその話はやめようと言った。そのドイツから来た男がボクのことをニコンの35ミリのデジカメで撮ったぞ見せてくれた。彼は日本が大好きというし、国際関係はこうした庶民レベルでも微妙だと感じた。



 今夜のライブは小型のアコーディオン、さらに小型の手風琴、鈴なしの大きなタンバリンという組み合わせだったが、観客などはまったく意識しないで、自分たちの練習のために演奏しているようだ。つまりトラディショナルミュージックの研究会がパブで練習するのを客が聞いてやるといった雰囲気で、ボクの前の女性は背中をこちらに向けて歌っていたが、ほんとうに素人ぽい歌い方だった。パブのライブにもいろいろあるのだ。羽振りのいいポーランド人がギネスを奢ってくれた。

●シャノン川を渡る
2006/07/19(Wed) 第14日

Kilrush-Tralee
 イルカウォッチングが売り物の Kilrush を後にして、Killimer から8:00発のフェリーで Shannon川を対岸の Tabert へと渡る。この時間はほとんどが通勤客かトラックだ。シャノン川の幅はとても広い。空は刷毛で掃いたような薄い雲で覆われてきた。フェリーは大きく半円を描いて着岸地点に向かった。そして8:30には、もう Tabert を走り始めた。広大な干潟が広がり、海鳥が長いくちばしを干潟に刺して餌をとっている。



 走行に関しては、普段は全く使わないフロントアウターのギアを使ってみた。ゆるやかな長い坂道がどこまでも続くアイルランドでこそ使えるギアだ。もちろんスピードがでる。
 美しい海岸の砂浜が崖に挟まれているリゾート、ballybunion バリーブニオンを通過。
 道路空間の確保は道端から張り出した枝などを刈り込んでおり、枝や草を避けて、センターライン側に寄る事故防止策やバスの車体を傷つけない配慮なのだろう。日本でもやってもらいたい。
 今日、会ったサイクリスト、ボクと同じ顎ひげの夫と妻、タンデムにキャリアカーを引いているカップル、それにカナダのレベルストークというボクが何度も訪れた町から来た親子3人連れ、地元のサイクリストとも話す。彼はGPSに驚いていた。12時すぎ Trelee着 73km。
 今夜もホステルを確保。Finnegans 16ユーロ。
 予定ルート上のフェリーが廃業したとわかり、カナダ人からの情報も参考にしてルート変更を検討した。昨日はアイルランドでも32度という暑さで、これは地元紙のトップを飾っていた。
 ライブはホテルで聞いたが、ギター、アコーディオン、フィドルのセッションだった。腕は確かで「The Water Wide」というボクの大好きな歌がとても印象的だった。Mary Black よりもさらに繊細な男性歌手の発声に魅せられた。


●「エアラ グンブロー」
2006/07/20(Thu) 第15日

Tralee-Killorglin
 早朝に出発しようとすると自転車を保管してある部屋が開かない。呼び鈴を押しても誰も降りてこないので、ノブ穴にニッパーを差し込んで回したら簡単に開いた。ところが、今度は充電中の道具一式が消えている。これがなくなったら一大事だ。旅先日記がケータイに入っているのだ。その他、充電道具をなくしたら、旅は続けられない。あちこち探して、レセプションデスクの上にあることが分かったが、ここも施錠されている。こちらはヤスリを差し込んで開錠に成功。やはり不測の事態のために道具を持ってきてよかった。この間、約15分。ごめんね。
 今日はディングル半島までだが、その先のフェリーが廃業しているというので、戻らねばならない。
 雨。低く垂れ込めた雲。おまけに蒸し暑い。梅雨のようだ。ジブラルタル方面から暖かい気流が流れ込んでいるのかもしれない。これではディングルの自然美は楽しめないだろう。ディングル着(50km 10:00)
 天候の回復の見込みがたたないので、幸い、ここからの戻りのバスがあるのを見つけ、港を見てから、12時すぎのバスに乗った。バス代より自転車料金のほうが少し高かった。自転車はそのまま平積みだったので、ハンドル部分が汚れたりした。
 バスに乗っている途中、天候は回復に向かった。バスの中で島の北西部に住んでいる Jack という僕と同年輩の男性と隣合わせとなり、向こうからいろいろ話かけてきた。日本人観光客はほとんどしゃベらないが、お前の英語はうまいとほめてくれ、先生でもしているのかと、BUDDHA だと言ってくれたが、この意味は不明。辞書を引いたら釈迦または悟りを得た人とでたが、まさか。また「フィチ」又は「ピッチ」とも言ってくれたが、これも分からない。そういえば、昨日のカナダ人の奥さんも英語がうまいねと言ってくれた。グレッグ先生のお陰だ。
 しかしこちらの人たちの英語を聞き取るのはとても難しい。外国人だからとの気配りはいっさいなし、トラベルオフィスの女性も、パブのバーテンも、B&Bでも、みんな早口だし、イギリス英語とも違うし、もちろんアメリカ英語でもない。話していることが分かれば、応答するのは何とかできる。相手の意図が理解できるまで何度も聞きなおしたり、こちらからこういう意味かと問い返すこともしばしばだ。
 Jackに「アイルランドよ永久に」とはゲール語で何というかと尋ねたら「エアラ グンブロー」と聞こえた。彼は6人の子持ちだが、そのうち3人はアメリカで生活しているという。これもアイルランドの現実だ。
 バスで Treleen に戻り、そこからケリー半島の入り口にあたる町に向かう。15時、風が変わる。気持ちがいい。町の手前にある農家が経営するホステル Laune Valley Farm Hostl に宿を取る。
 「卵あります」と書かれた看板を出しているこの農家の庭先には鶏が走り回っており、猫が昼寝をしている。今までのホステルの最安値14ユーロ(2100円)だ。
 ここでオランダ人夫婦のサイクリストがテントを張っており、ホステルのキッチンで食事をしている。奥さんとかなり長い間、お話をする。荷物があるので、1日50km位を走るが、スペインに行ったときは2300kmも走ったことがあると言っていた。彼らの自転車は頑丈そのもので、相当に重いし、さらに重い荷物を付けるので、スタンドが前後についている。相当体力がいると思う。また彼女は「日本人は全く見かけなかった。あなただけよ」といったが、そらそうだ。ボクもベルファーストを出発してからは日本人には誰一人会っていないもの。

 道路端での牛の売り買い現場を目撃した。牛が一頭乗せられているトラックが止まり、数分するとコンテナに入れられた別のクルマがバックで入ってきて、そこから大きな牛が移し替えられた。2台のクルマはそのまま、逆方向に走り去った。まだ、明るいとはいえ、午後の8時半の出来事だ。




 もう一つ、牧草地に屎尿を撒いている現場もみた。
日本人にとっては懐かしい昔の臭いだからすぐに分かった。そういえば、この大型タンクローリーは観光客がサーモン料理を楽しんでいる、すぐそばで屎尿タンクを川の水で薄めていたのを思い出した。こうしたリサイクルは日本の北海道でやっているのだろうか。江戸時代の日本のリサイクルの姿をアイルランドで再見できるとは、古くて新しい事柄だろう。だからむやみに牧草地に入らないように、こまめに柵が張りめぐらされているわけだ。本日の走行、81km。


●消えた美人ローディー
2006/07/21(Fri) 第16日

Killorglin-Kenmare
 ときの声を告げる雄鶏君に送られて早朝に発つ。広範囲に朝霧が立ちこめている。今日はキログリンから Ring of Kerry を回る。アイルランド南部でも最も美しいと云われているところを好天に恵まれた。昨日の湿った悪天候は嘘のようで、乾いた寒冷な天候に戻った。といっても時々、シャワーもある。風景があまりに大きすぎてカメラに収まりきれない。朝早く走ると太陽光線が斜めにあたり、いい写真が撮れる。「赤い狐」という素敵なパブを見かけたので思わず止まる。
 約30kmほど走り、コーヒーとパンやサンドイッチを食べるのが毎日のようになった。途中の Caherciveen という町で1916年の独立戦争を戦った、銃をもつ兵士の像があった。碑文はゲール語なので読めないが、工事中の若い作業員に聴いたら、その通りだという。若い人でも自分たちの国の歴史は正しく理解しているふうに見えた。
 途中、カルガリーの北100マイルに住んでいるカナダ人夫婦、オランダ人夫婦の写真を撮り、メール交換を約束する。
 SITE FOR SELL。 絶景の場所が売りにでてる。別荘でも建てる人が買うのかな。
 巻貝パスタのコンキリエ、コーン、人参、タマネギ、松の実などのサラダとCDを村の市で買って、サラダはある岩の上に座って食べたが、美味だった。ここで尻に敷いた半ズボンを忘れてしまった。
 その後、イギリス人母子3人とも出会い、写真を撮る。さらにバートランカスターを女にしたような美人ダブリーナのローディーとも出会った。彼女は眉毛まで赤毛だ。しばらく彼女のレーサーに引いてもらう。美しい足だった。もちろん彼女の写真も撮る。途中で彼女のレーサーを追い越し、いい気になって走っていたら、どこかで見失ってしまった。残念。突然消えてしまったので、もしかしたら、赤い狐だったかもしれない。
 ケンメア着(122km 15:00)。なくした半ズボンを買い求める。
 夕食のアイルランド伝統料理のラムを鮭とムール貝に置き換えたシチューだったが、とても美味い。一度作ってみたい。サラダのドレッシングにジャムが入っている。これもいける。


●ずぶ濡れの峠越え
2006/07/22(Sat) 第17日

Kenmare-Baltimore ケンマレからバルティモアまで。
 ケンマレからアイルランドの最南西端にむかって走っている。雲が低く垂れ込めている。そしてポツポツと降り出してきた。道は次第に高度を上げながら、半島を横断する形となる。登ってきた全容がすべて見渡せる。このスケールは日本の乗鞍にもないものだ。峠の手前に岩をくり貫いたトンネルが4カ所もあって、それぞれ凄い迫力だ。最高所の標高は310mで、今までで最も高い。



 トンネルを抜けてカウンティ・コークに入る。文字通りアイルランドの南西部に入ってきたのだ。しかし雨が凄い。今日の雨はとても10分間で止む雨ではない。靴の中など、全身が濡れてしまう。この雨で、もうアイルランドの風土とすっかり仲良しになった気がする。
 続いて、標高差300mのダウンヒルだ。雨の中、体が冷えて手が痺れてくる。スリップすれば大事故になるのでブレーキ操作は慎重に行う。
 こうしてバリーデホフからスカルに向かった。雨はようやくあがった。フェリー乗り場でオランダ人女性のソロサイクリストと出会い、フィッシュアンドチップスを食べながら、情報交換をする。ここでも写真を送る約束をする。彼女はアムステルダムに住んでいるというが、中年なのに、キャンプ支度の完全装備だった。体力、精神力ともにタフで、ボクなど足元に及ばない。ボクはなるべく荷物は軽くと言う主義だから、テント、シュラフ、マット、食糧と水など野宿に関わる荷物は持ちたくないが、この中年女性はそれを実行しているから驚きだ。もう一つ、ボクが野宿…幕営をしないわけは、毎晩、充電のためのAC電源が必要だからだ。ケイタイ、デジカメ、GPS、それにiPOD、この全ては毎晩充電しなければならない。効率的なナビゲーションや画像とテキスト記録のためには、どこでも野宿でいいというわけにはいかないのが、現代の旅人の辛いところかもしれない。



 14:30のフェリーでケップクレア島に渡る。自転車は無料だった。この島もまた絶景だ。絶壁と青い海、島のグリーン、白い雲、どれをとっても絵になっている。
 島では、フェンダーはおろか、ナンバープレートさえないポンコツクルマがタクシー代わりを努め、頑張っている。港で泳いでいる観光客が何人もいた。こんな離れ小島でどうして生活が成り立つのか、丘の上に十数軒の民家が散在していた。美しい島だった。島のホステルに泊まりたかったが、土曜日で満室。やむなく18:00のフェリーでバルティモアに向かうことにした。バルティモアでは、幸いにも一人分だけホステルのベッドが空いていた。ROLF'S HOLIDAYS 15ユーロ。しかしレストラン部のほうが高かった(28.50ユーロ)。本日の走行80km。


●サークルストーン
2006/07/23(Sun) 第18日

Baltimore-Cork バルティモアからコーク
 今日からは、この大きな島を北北東に向かい、ほぼケルティック海沿いにダブリンに向かう旅の始まりとなる。
 途中の小さな町で女の石像の頭部に道路工事に使うオレンジの三角柱を帽子に見立ててかぶせているいたずらを見かけたのでカメラに納め、脇をみたら付近の案内図があり、そのなかにサークルストーンがあることを見つけた。石像へのいたずらを見て止まらなかったら、わかないところだっだ。
 国道N71から脇道に入り、美しい海岸部を抜けて、急な丘を越えてゆく。道は国道と平行しているのに、脇道のアップダウンはいつもこうだ。アイルランドの地形そのままに道が作られている。



 ストーンサークルは、その道からさらに枝道を海岸に向かって下ったところにあった。海が見える緩やかな起伏のある斜面のやや平らな場所に、吃立した石が規則正しく円を描いており、朝日が真横からあたって長い影を引いている。古代人の祈りの場所であり、12月の幾日かにはサークルの真ん中を貫いて太陽が沈むとの説明が付けられている。しばし無言で古代人たちと対話した。
 コロナキルティー通過は10:00 50km。
 灌木に赤い花がぶら下がるようにして咲いているのはカウンティー・コークのシンボルのようで、花の名は何というのか。サラダにも添えられている。ホステルのおばさんに聞いたところ Honey Suckle ハニーサッカーというと教えられた。
 アイルランド人が国内をサイクリングして旅するという光景は見かけなかった。ドイツでは中年夫婦が群をなしてサイクリング旅行をしているのとは対照的で、休日のワンデーサイクリングは見かけるものの、楽しみはヨットや釣りなどほかにあるということか。そういえば、アイルランド島を一周するヨットレースが開かれるポスターを見かけたことがあった。毎年夏に行われるらしい。コーク着(14:00 107km)。
 大都会コークは日曜日でトラベラーズオフィスも閉まっている。今夜の宿探しのために本屋で市内図を買い求め、地元の人にホステルの場所を尋ねる。こうしてうまく空室が見つかった。Sheila's Hostel(17ユーロ)。とても大きなこの町を見るためと、休養のため、ここに2泊することにする。
 今夜もアイリッシュミュージックを楽しんだ。8人のバンドで2人の女性フィドラーのほか、名前も知らない伝統楽器が奏でられる。丸みを帯びたフィドラーに似たものや、ふいごで鳴らすクラリネットのような楽器もあった。彼らの演奏スタイルは、自然体で自分たちが練習しているのか、客に聴かせているのか、ビールを飲みながら適当に合わせているのか分からない有様だった。自分に自信があれば、セッションに加わってもいいし、ついてゆけないと思えば途中で抜けるのも自由なのだ。


●サイクリングルートを変更する
2006/07/24(Mon) 第19日

コーク市内観光
 日程は予定より2日ほど早く進んでいる。気持ちに余裕がある。今日は休養を兼ねてコーク市内観光にあてる。
  そうはいっても、少し早めに進んでいる余裕を生かして、今後のルートについて、再検討してみた。というのも、観光案内所で南部地域のサイクリングルートを入手したので、それを参考にダブリンまでのルートを変更したのだ。さらにそのルート上のホステルを毎日の到着地点となるようにルートも切り直した。そして、それをGPS上のルートとして作成するやっかいな仕事もある。パソコンでルートを作成するのは簡単だが、GPS上で同じことを行うのは骨が折れるし、目がかすむ。しかし、この作業をおこたるわけにはゆかない。残り4日分の新ルートを作成するのに、午前中一杯かかってしまった。
 午後は The Cork City Tour という市内観光バスに乗って一巡する。2階建てバスなので気持ちがいい。途中下車して、18世紀の刑務所跡を保存展示してある Cork City Gaol を見る。囚人や看守などの人形も展示してあり生々しい。食品の盗みや売春などの些細な罪でここに収監されたのは、当時の貧困が背景にあったことが容易に想像できるものだった。
 夜のライブはウエスタンだった。楽器はもちろんアイリッシュのものだが、こうしてみると、ウエスタンというのも彼らが、アメリカに渡ったことにより、そこから派生していったのではないかと思える…ではなく聴える節がある。


 


●羊が一匹
2006/07/25(Tue) 第20日

CorkーRathgormack コークからラトゴーマック。
 道路を横断している牛に出会い、今度はカメラに収める。牛飼いがクルマをチェックしながら、牛を横断させているのだ。クルマが来ない間をねらって牛に合図すると、牛は道路を渡ってゆく。牛が農夫の合図に機敏に反応しているのがすこし可哀想な気もする。

 41km走り、コンナという村で朝飯。気持ちの良い川沿いの深い森を抜けたところ、羊が一匹、道路に立っていて、こちらの様子をうかがっている。そして今度は羊が3匹。標高342mの峠を通行中の出来事だった。

 

 ついにカメラのメモリーカードがいっぱいになったので交換する。この峠にはいくつかのハイキングコースが設けられており、とても美しいところで、Comeragh Mountains の一部だ。
 続いてまた300mの峠を越えてラトゴーマック村に到着(131km 15:40)。
 あらかじめ調べておいたホステルはすぐに見つかった。なにしろ村といっても民家が数軒しかないからすぐ分かる。コークとはたいへんな違いだ。しかしホステルは閉まっている。しかたないので、近くのミニショップで聞いてみると、パブの隣がオーナーの家だから聞いてみてね、と教えてくれた。ノックすると、ちょっとタンマ、今、鍵を開けにゆくからね、という調子だ。このホステルはハイキング客が狙い目のようで週末は込み合うという。しかし今夜は誰も泊まらない。広い相部屋にたった一人で寝ることになる。しかもあまりに寒村だからレストランもない。ミニショップでタマネギ、リンゴ、ソーセージを買ってきて、ホステルの台所で調味料を借りて、それらを炒め物にしてみた。ラードやケチャップを使ってうまくできたので、我ながら満足だ。そうこうしているうちに訪問客だ。今夜泊まりたいのかと聞くと、そうではなく、週末にここの体育館を利用したいので見せてくれないかという、「どうぞ」というのも変だが、ついオーナーに代わっていろいろ説明してしまった。なぜ、客がこんなことをしなければならないの?
 ホステルは Rathgormack Hiking Centre (15ユーロ)。
 村のパブは男が数人、黙って飲んでいたと思ったら、やがてお互いにしゃべり始めた。トラクターの運転手、カウンティーの労働者、電力会社の地元社員といった顔ぶれだ。
 ここはホステルといっても、地元のコミュニティーセンターの役割も果たしており、今夜はオーナーのおばさんの誕生日を祝う会だった。女性が8人、そしてお供の夫たちが3人が集まり、ささやかなパーティーが開かれた。泊まっているボクも招かれた。すぐに仲良しになり、交流を深めた。こういう場合どこの国でも、一般的に女は開放的で、男は外国人に対し心を開くのが遅れるようだ。
 女達の誕生日会につきあっている男どもにいろいろ話しかけてみる。お前は農家といったが、なにを飼っているのと聞くと、牛という。何頭だと聞くと、秘密だとといって、ウインクする。そして68頭だよという。ボクが日本では農民が牛乳を川に捨てているよというと、信じられないという顔をした。つまり、この国の酪農は政府が保護しているから、そうした深刻な場面には遭遇していないので、信じられないのだろう。

●朝霧の虹を見る
2006/07/26(Wed) 第21日

Rathgormack-Wexford ラトゴーマックからウェクスフォード
 ホステルを出たところで日の出だ。牛がシルエットとなって朝日に浮かんでいる。朝霧に朝日が射して虹が作られた。朝霧はせいぜい高さ10m程度だから虹はアーチになれないけれど、虹には違いない。



 大きな町、ウォーターフォードを通過(40km 08:00)。ここにギネスの醸造所があった。大きな川をフェリーで渡る(2ユーロ)。湾の最奥に広大な干潟が広がる。無数の鳥たちが餌をついばんでいる。
 判断に迷う分岐点の通過方法はGPSの地図をスケールアップしてみると、ルートをはずしてしているかどうかがすぐに分かる。十字路の場合も同じで、少しずれた十字路も拡大してみると実によくわかる。
 今日は東部の海岸部を走った。海はすでにアイリッシュ海となった。峠がないだけ楽だったが、広大な湿地帯など、この国の豊かな自然に接することができた。Wexford 着(130km 14:30)
 宿は Kirwan House で、港から坂を登った教会の近くにある。19ユーロ。洗濯をする。ダブリンから海水浴にきた中年夫婦と話す。旅なれている人は安いホステルを上手く使っているみたいだ。
 インターネットで Ilus と連絡がとれた。是非、ダブリンのオコーネル橋で会いたいという。ダブリンまで、残すところ、あと2日となった。


●目の優しい大男と再会
2006/07/27(Thu) 第22日

Wexford-Rathdrum ウェックスフォードからラスドロムの森まで
 ホステルの枕の下には若い女の下着が忘れられていた。
 ケネディーの祖父はウェックスフォードの近くで暮らしていたらしいことなど、ホステルにいるだけで、いろんなことが分かってくる。
 一路、ダブリンに向かって北上する。牧場のテリトリー毎に散在している家々にはクルマが不可欠で、たかだか500m離れたところに行くのにもクルマに乗っているホステルのオーナーもいた。人々の生活にクルマはすっかり溶け込んでおり、日本車がそれにうまく食い込んでいるのが現状だ。朝飯はツナコーン、人参キャベツサラダ、チリチキンにクリームを塗ったロールパンサラダがうまかった。


 発電風車が17基。ゆっくりと回転している。すごい景観だ。その下で牛が眠っている。
 海岸部にでた。ブルーに白い円が染めぬかれ、真ん中に波頭が描かれてる旗を指して地元の男性は、あの旗はこのビーチは綺麗で海水浴ができるんだと教えてくれた。
 また交通事故だ。今度はオートバイとトラックだ。オートバイの主はすでに病院に運ばれていない。そのオートバイがキャリアカーに乗せられて運ばれて行くそばに警察官が立ち会っている。
 走っているとGPSの1.2km縮尺でも表示されない道路はいっぱいあるが、それを辿ると行き止まりであったり、地域の生活区域を周回する道路であったり、ろくなことはない。やはりこの縮尺で、表示される道路を使うべきだということもわかる。このヨーロッパのデジタル地図は、実によくできている。地図だからといって、すべての道路を掲載することは、旅行者にとって必ずしもいいとは限らないことを納得した。




 ラスドロムに到着したものの、ホステルは何かの催しがあり、今夜は部屋がないとを断られ、道すがらのB&Bを探しながら、今夜の食料を仕入れる。近くにレストランがない場合に備えてのことだ。
 突然、ボクの肩をたたくものがいる。振り返ると、Doollin のパブでボクに握手を求めてきた筋骨隆々のアイルランド男ではないか。ボクは思わず「You !」と叫んでしまった。自転車で島を回るなんでグレートだと云ってくれた目の優しい男に10日後に偶然出会うなんて、なんと云うことだ。アイルランドは不思議に満ちている。彼には今夜は、この街のホステルに泊まるといったものの、部屋が取れず、やむなく先に進む。これから先は街らしいところはないのだが、B&Bは点在しているからなんとかなるだろうという見込みだ。
 何軒かのB&Bに断られながら、約20km 先の森のなかにすごい雰囲気のB&B Doire Coille House を見つけたので転がり込んだ。雰囲気もいいが、値段もいい。朝抜きで40ユーロだ。距離は117km 15:00
 ダブリンから50kmのところにこんな深い森があるとは驚きだ。




 やはり予想があたった。いつもは宿に到着してから、シャワーを浴びたりしてから町に食事にでかけるのだが、このB&B は全くの森のなかで、でかけることなどとてもできない。買ってきた鳥腿肉のフライ、鳥ささみ入りサラダ、人参サラダで食事する。美味い。今夜はギネス代わりにジェイムソンだ。この旅でウイスキーはこれで2本目。ジェイムソンとブッシュミルの味わいの違いは、まだ分からない。どちらも同じアイリッシュウイスキーの味だ。スコッチの薫醸の独特の味がなく、すこし甘めのサッパリとした味であることは、どちらも共通している。


●フィナーレ飾るウィックロウの景観
2006/07/28(Fri) 第23日 

Rathdrum-Dublin ラスドロムの森からダブリンへ
 今日は、いよいよダブリンに入る日だ。うまく到着できれば、アイルランドを回るボクの旅は終わるのだ。
 朝の5時半頃から釣り糸垂れている人に話かけられた。鱒は大きいのが釣れるけど、今年は水が少なくて…。日本ではどんな魚が釣れるのだと聞いてきたので、川の魚の代表格は鮎という魚で、塩焼きにすると美味いんだと答える。道路はクルマで大変だろうと同情してくれる。水が少ないといういうことは、今年の夏は例年になく雨は少なく、ボクにとっては大変ラッキーな旅となったことを感謝しよう。
 すばらしい朝焼けの野原をリスか、オコジョかが、走り抜けた。小型の雉のような、しかし羽の色は白い鳥が足元から飛び立つ。ウサギが飛び出してきて、自転車と一緒に5メートルほど走り、茂みに飛び込んでいった。朝早くこうした野生動物と出会うのも楽しい。
 最終日はすばらしいプレゼントが用意されていた。見事な滝だ。高さ100m、傾斜は40度、長さ180mの3段滝ではないか。標高350mから落ちている。この滝とそれに続く谷川全体がプライベートランドと書いてあって、さらに驚く。この滝を登り詰めたら、今度は草千里だ。阿蘇の何倍あるだろうか。幾重にも丘が重なりあって朝日に輝いている。Wicklow Mountains の一部だ。ルート115線はこの島の周回サイクリングの最後にすばらしい景観を用意してくれた。もちろんお前のために用意しているのではないぞ。もともとアイルランドにあるのだといわれそうだが、ボクとしては、そうでも云わないと表現できないほど、すばらしい景観で、どんな言葉も言葉足らずになってしまう。
 この風景のなかをダブリン方面から男性ローディーが駆け抜けていった。すばらしい景観のなかを日常的にサイクリングできるなんて、ダブリン市民は幸せだ。
 この峠のピークは440mだ。またウサギが2羽。ぐるり360度、道路という人工物以外何もない草千里だ。緑のヒルズが周りを取り巻き、青い空に複雑な白い雲が広がっている。そのなかをルート115がうねうねと緩やかに這っている。なにもない Wicklow 高原のなか、ルート759との交点にはダブリンまで26kmの道路標識がぽつんとあった。ダブリンからこんなに近いところに大自然があること自体に驚く。道は標高450mから500mの間を常にアップダウンしている。あまりに広大で打ちのめされそうだ。一気に130mも下ってまた登りが続く。真っ直ぐ、まっすぐ、ダブリンに向かっている。明らかに泥炭の原野で火災が発生した跡に出会う。もし火災が夜だったら、恐ろしい野火だったろう。今は焼け跡に緑の草が勢いよく伸び始めている。これも自然の循環だろう。最後の高原、標高497mを下り始めたら、眼下にダブリン市街の広がりが目に飛び込んでくる。旅の最後を飾る長い下り坂が延びている。もう言葉にならない。旅客機が高度を下げるように、ボクの自転車は滑るように徐々に下ってゆく。長かったサイクリングがもう終わると思うと、言葉にならない感慨がこみ上げてくる。




 52km 9:50、ダブリンのオコーネル橋に到着。1900kmの旅が終わった瞬間だ。
 しかし、それからが大変だった。まず朝飯を食べて、アイリッシュ・インデペンデントという新聞社を探しあて訪問し、僕の体験を聞いてもらおうと試みたが、警備員に軽くあしらわれたので、emailに切り替えたが、返事がくるかどうか分からない。ホステルもどこも満室でようやく1軒だけ、ベッドがあった。それも今夜だけで、明日のベッドは受付で別のところを探してもらった。Avalon House 27ユーロ。同室はちょっと太めのフランス女、イタリア野郎、それにNYに住む中国人といった顔ぶれ。
 ピザ、ギネスでサイクリングの完走を祝ったあと、テンプルバーに行く。このパブの名前がこのエリアの愛称となっている。いわば元祖だ。路上のセッションを冷やかして戻る。
 ダブリンの警官は自転車に乗っている。許しを得て写真を撮らせてもらった。本日の走行61km。




●ロングルームの蔵書に驚く
2006/07/29(Sat) 第24日 Dublin

 今日はもう走らなくてもいいのだが、イギリスに渡るフェリー乗り場を確認しておきたいのと、チケットを購入しておきたいので、小雨のなか自転車で出かける。それもチェックアウト前の時間を利用してのことだから、忙しい。イギリスのホーリーヘッドに渡るフェリーはやはり大きい。ちょうどイギリスに向けて今朝の便が出帆するところだった。チケットは31ユーロだが、自転車は無料というのが嬉しい。ホステルに戻り、チェックアウトを済ませ、Celts House という別のホステルに向かう。すこし遠いが、18ユーロと安い。ここに3泊することにする(26km)。



 午前中はジェイムソン・ディステラリー The Old Jameson Distillery を見学してすごす。ここのレストランで食べたアイリッシュシチューも美味かった。午後は内戦時(1922〜23)に臨時IRA総司令部がおかれたフォーコート Four Courts を外から見て、トリニティー・カレッジ Triniti College でケルズの書などを見る。紀元前600年に描かれたものらしいが、人間の神への執念のようなものが感じられる。しかしそれより、ロングルームに収集されたおびただしい古書には驚かされた。人間の知恵がここに結集しているさまは壮観だ。ここでは今でも、この古書の研究が続けられているという。さすがアイルランドの最高学府だけのことはある。
 大学近くの道路でデモがやられていた。レバノン、イスラエル戦争反対と国内のシャノンという地域から米軍の撤退を要求するデモだったが、約500人ほどが集結していた。チラシには社会主義者の行動委員会と書いてあった。例の鎌と麦の穂をあしらった「共産党」と書かれた赤い旗も風に翻っていた。アイルランドにも「共産党」という政党が存在しているのだ。


●ダブリン市内を巡る
2006/07/30(Sun) 第25日 Dublin観光

 朝、6時前に目覚めたが、今度起きたら9時半だった。やはり疲れている。
 すこし離れたギネスのビジターセンターのようなストア Guinness Storehouse というところまでLRTに乗る。ダブリンには2路線があってなかなか快適だった。ギネスの古い醸造工場跡がうまくレイアウトされていて、全体がギネスのミュージアムのようになっている。すぐ近くの工場では、いまでもギネスを作っているらしいが、ここは完全なアンテナショップだ。大勢の観光客が押し寄せていて、入場料だけでも儲けになるだろう。一通り見終わって最上階のラウンジで入館バッジの止めリングと引換えにギネスをワンパイント楽しんだ。どこで飲んでも味は同じなのだが、総本山での味わいは格別だった。ここの規模はたとえば、府中のサントリービール工場の同じ見学施設とは比べものにならない規模と内容で、相当の投資をしている様子がうかがわれる。さすが世界のギネスだ。




 展望ラウンジからはダブリン市内はもちろんのこと、遠くの港やダブリン山まで見渡せる。2日前の朝、ボクが辿ってきた、あの丘もはっきりと確認できる。あれは丘ではなく、市民にとっては山だったのだ。
 ここで食べた昼食のビーフシチューはギネスを隠し味に使っており、格別の味だった。日本でいうところの白いうどんのどんぶりのような器に入っていたのには驚いた。
 時間がゆっくりとすぎて行く。午後はキリンハム・ジェイル Kilmainham Gaol に行く。もと刑務所跡に独立戦争当時の犠牲者の遺品や写真などが展示されており、アイルランド共和国樹立の礎となった将校や兵士たちを偲びたたえるミュージアムといった趣だ。当時、実戦で使われた、銃やピストルなども展示され、もっとも大切に扱われていたのが、1916年に行われた独立宣言で、そのコピーも1ユーロで売られていた。おそらくエリザベス女王やサッチャーは、絶対に足を向けたくないところだろうなと思ったが、彼女らが訪問したかどうか、聞くのを忘れてしまった。
 シティーセンターに戻るため2階建て観光バスに乗っている途中、突然、雨が降ってきた。屋根がないタイプだったが、観光客は濡れても平気で座り続けていたが、そのなかの一人だけ、傘をひろげたので、周りから笑い声があがった。バスに座りながら傘を差している光景も確かに珍妙なものだ。
 夕方、5時にイロッシュとの待ち合わせのために、オコーネル橋の銅像の下に座っていたら、若い女が寄ってきて、日本人だと分かると LOVE という言葉を日本語でどう書くのか、書いてくれときた。「愛」と「恋」の2文字を書いてやって、タトウでもやりたいのと聞いてみた。こちらでは路上でタトウを入れる商売もはやっており、若い女が路上で腰あたりを露出させてタトウを施してもらっている光景も見かけた。くだんの若い女はロシアから来たと云っていたが、格別、日本に興味を持っている様子だったが、くわしく聞こうとしたときにイロッシュがやってきたので、そのままになってしまった。
 イロッシュは2週間前と変わっていなかった。お互いに一人旅なので、なんとなくウマが合いそうだと感じて、ゴールウェイで会う約束をして、それが実現した。彼女は2年前にダブリンに2週間ほど英語の学習のために滞在したというので、あちこち連れて回ってくれたし、英語もボクより数段上手だった。聞けば、ロンドンやスコットランド方面に何度も旅行した経験を持っているからと云う。リフィー川のデッキのベンチで語りあったり、スティーブンスグリーンパークを散歩したり、ボクの知らない200年前からあるパブに案内してくれたり、彼女と過ごした5時間はあっと云う間に過ぎ去っていった。
 明日のランデブーの時間と場所をお互いに確かめあって、11時にリフィー川の橋の袂で分かれた。ホステルに戻ってみると、同室の3人は誰も帰っていない。朝、起きてみてもまだ帰っていない。どこに行ったのか、ダブリンにも歌舞伎町のような歓楽街があって、そこで沈没でもしているのだろうか。


●アイルランド一周は「マイヨジョーヌだ」
2006/07/31(Mon) 第26日 Dublin観光

 朝の町を歩いていて感心するのは、どの建物も、築200年以上経っているが、人々は修復を繰り返し、それを大切に使っていることだ。大工さんの仕事は古い建物をリフォームすることなのだ。日本では取り壊しになりそうな建物も売りに出されている。日本では見られない光景だ。




 9時半にイロッシュが仕事柄行きたいという、GAA…ゲーリック・アトラジック・アソシエーションという総合体育ミュージアムで落ち合う。8万人以上が入れる巨大スタジアムがメインだが、こちらはまだ拡張工事中だった、ミュージアムの方はかなり内容が充実していて、この国とスポーツとの関係が良く理解できた。イロッシュに感謝しなければならない。というのも、日本の相撲のようにアイルランドの国技と呼んでもいいスポーツが存在していたのだ。そのルーツは説明によるとジャガイモに由来しているという。つまりジャガイモを掘り出すときに棒っ切れで土のなかに隠れたジャガイモを探す動作が、そのままスポーツに転じたというのだ。しかもこの国の独立戦争とも深く関わり、国民の正義や戦意を高揚するためにも、そのスポーツは普及したし、政治犯釈放のためのハンガーストライキにも参加したと記録されていた。ブラディーサンデーの事件で殺された青年の一人も、このハーリングというスポーツの選手だったという。クリケットで使うラケットのような扁平な木製のクラブで硬式野球と軟式野球の間の子のようなボールを打ち、相手のゴールに入れれば得点できるので、サッカーに似ていなくもない。ゴールキーパーもこのラケットで打ちかえさなければならない。
 このハーリング Hurling というスポーツは国民的スポーツとして愛されており、ちょうど日本の子供たちの野球熱のような感じで、彼らは有名選手に憧れている。
 スタジアムの関係者は、お前さんはツールドフランスのアームストロングみたいに頑張ったのでマイヨジョーヌだよと、アイルランド1周を喜んでくれた。
 その後、ダブリンからダブリンまで2200kmを走ったというイロッシュのレンタカーでダブリン港の北側に突きでた半島をドライブした。港にはアザラシが生息しており、波が強い海岸ではウインドサーフィンも見られた。ここにアイルランドのオリンピック委員会の事務所があり、立ち寄ったところ、アイルランドのメダリスト名簿やトリノ大会の聖火リレーのトーチを触らせてくれたり、とても楽しい時間が持てたが、これもイロッシュの何でも見てやろうという精神によるところが大きい。最後にアイルランドはオリンピック誘致を望んでいるかと聞くと、明快な「ノー」という答えが返ってきた。金がかかるからね、首相は望んでいないよと首をすくめてみせた。どこかの国と違って、アイルランドは賢い国だ。
 夕方、イロッシュと最後の時間をすごすために、パブに入りギネスを楽しみながら、アイリッシュミュージックを聞いていたら、そのすこし悲しげな音色に誘われたのか、彼女が急に涙ぐみ始めた。たぶん旅の終わりの感傷だろうと思って、君の旅も終わりだねと云ったら、違うという。では急にどうしたのと尋ねると、実は昨年、アイルランド旅行の計画をしていたのだが、母が急逝しキャンセルしたの。もうあれから1年が訪れようとしているのといって、また、目頭を押さえだした。旅の空の下、肉親を失った想いが募ったのだった。彼女のおかげで、僕の旅の終わりも大変楽しく過ごせた。オコーネル橋で彼女と別れたあと、飲み直したギネスは少しほろ苦い味がした。


●フェリーでホーリヘッド(英)へ
2006/08/01(Tue) 第27日 London へ移動日

 Dublin港-Holyhead港-London(Euston)
 7時半発のイギリスの Holyhead ホーリヘッド行きのフェリーに乗るために6時前にホステルを発ち、港まで8kmを走る。チェックインを済ませ、乗船待機をしていたら、ポーランド人だというフェリー会社の従業員が、日本人の年金のことをさかんに聞いてくる。平均的な金額を云ったが、彼は理解したかどうか、ポーランドとは経済情勢が違うから、理解できたかどうか分からない。


 

 ダブリンからホーリーヘッドまでは直線距離で約90km。高速艇だったので、早く着いてしまった。港では入国審査もなにもない。港を出て小さな街の中心部に来たが、鉄道の駅へのアプローチが分からず、あちこちさまよう。
 列車はインターシティーだが、座席は狭い。乗車券は車内で買えるというのでそのまま乗っていたが、一向に車掌が来ない。ようやく検札に来て、ポンドが足りないというと、他に支払い方法はと聞いてくるので、クレジットカードを出したら、車内でも使えた。65ポンドで約1万円だ。日本の「こだま」のような列車だった。
 このあたりのイギリスは景観的にはアイルランドとそう変わりはないが、家々の配色が面白くなく自然と調和していない気がした。
 4時間後にロンドンのターミナル駅のひとつであるユーストン駅に着いた。ここからまた自転車で別のターミナル駅であるパディントン駅へ移動する。帰国時にヒースロー空港への移動が便利だからと、あらかじめ決めておいたのだ。2kmほど走り、簡単にそのターミナル駅に着いた。

 駅で両替をして宿探しに向かったが、簡単に見つかった。高い、安いを取り混ぜてホテルが駅裏に並んでいるので、便利だった。選らんだホテルはホステルの一人部屋といった感じで、いたってシンプル。ここに2泊することにした。Bluedaws Private Hotel と名前は立派だが、田舎の少し高めのB&Bより安い。1日25ポンドで5500円ほど。部屋は5階の屋根裏部屋。鉄製のフレームの窓から時たま鳩が室内をのぞいている。外はポプラのような大木が実を付けており、展望は遮られている。ターミナル駅からわずか3分で、緑の多い環境だ。ベッドのスプリングが壊れており、デコボコしている。古いが部屋は清潔で、これもいい思い出になる。
 ホテルで少し休んだあと、帰国時の自転車梱包に必要なバブルラップを探しに出かけた(26ユーロ)。
 夕食は駅構内の回転寿司にしたが、枝豆、餃子、焼き飯、トンカツ、焼きそば、饅頭、焼き鳥もグルグル回っている。肝心の寿司は種類がすくなく貧相だ。回転日本食といった感じで、イギリス人に日本の食文化にたいする誤解を与えているようだ。

●サイクリングでロンドン見物
2006/08/02(Wed) 第28日 

London市内サイクリング
 午前中はとにかくロンドンの街を見てやろうと、サイクリングに出かけた。ハイドパークは確かに広大だが、森があるだけといった雰囲気で、日比谷公園とはかなり趣が違って、大味だ。大きな樹木があって、ジョギングをする人、犬の散歩をしている人、それにサイクリングの人など、様々だ。また、さすがロンドン、乗馬専用コースまである。歩道を走っていたら、婦人警官に車道を走りなさいと注意を受ける。自転車は車道を走らなければならないことは徹底している。特にそのための専用レーンはないが、時々ごく短いレーンがあったりして、まごつくことも多いが、クルマのほうも心得ていて、自転車は自然と交通の流れのなかを走っている。特に通勤に自転車を使う人が多いようだ。




 バッキンガム宮殿の衛兵チェンジングは今日はなく、明日11時30分にやると看板がでている。衛兵の一人は10メートルほどを行ったり来たりしている。バッキンガムから少し走るともうビッグベンだ。自転車はロンドン市内を走るのにも、まことに便利だ。続いて議会のある建物、ピカデリーなど主な名所を回った。
 途中でロンドンの情報誌 Time Out を買う。今日が発売日だ。こうしてテームズ川の両岸を大回りして、ロンドン中心部の広さを実感する。午後1時半までに市内を35km走り、一方通行のやたらと多いロンドンの道路にも慣れた。
 途中、公衆電話から帰国便のリコンファームも済ませ、明日の大英博物館ツアーの予約も行う。
 ホテルに戻って少し休んでから、今度はロンドン名物の地下鉄「チューブ」でピカデリーに出かけた。チューブはとても小さい車両で、向かい側の美人と見つめ合ったら、こちらがドギマギしてしまうほどの近さだった。
 さすがピカデリーだ。なんでもそろっている。ボクのお目当ては、イギリスのサイクリング関係書籍を入手することだったが、大きな書店には、選ぶのが困るくらいサイクリングに関する本や地図があった。これで来年のイギリスのサイクリングは万全だ。アウトドアー関連の別の店で、アイルランド、アメリカ西海岸、スペイン〜フランスのサイクリングガイドブックを見つけ購入する。日本ではまず入手できないだろう。行く行かないは別にして、世界のサイクリング情報を収集するだけでも楽しい。
 パディントン駅で、孫娘たちのためにパディントンのTシャツを買う。ここは童話のパディントンの熊さんの発祥の地だ。駅では、その童話も売っている。


●突然「レットイットビー」が…
2006/08/03(Thu) 第29日 帰国日(夜)

London-Heathrow  

 いよいよ帰国の日となった。チェックアウトの前に荷物の最終点検を行い、ホテルに午後5時まで自転車とともに預かってもらう。これが一番安全だ。
 チューブの一日乗車券「ゾーン1」というのを買い求め、ロンドン中心部を乗り回す。チューブは、赤い2階建バス、黒いタクシー、チェンジングガードなどロンドン名物のひとつだ。パディントン駅を通っているベーカロー線は今年で丁度100年目だと、記念シールが車両に貼られている。複雑な路線を確認して乗車するのだが、やはり路線を逆方向に行く車両に乗ってしまったりする。乗換えのために降りたオックスフォードサーカス駅の地下通路を歩いていると、突然ビートルズの「レットイットビー」が聞こえてきた。見ると通路のなかの許された場所で一人の男がギターを奏でている。こちらが立ち止まると、なにか言い出した。聞くなら金を置いてゆけとでも云ったように思う。バラ銭をギターケースに投げ込んだ。
 バッキンガム宮殿前は、チェンジングガードを見ようと、すでにすごい人集りだ。各国からの観光客約1万人が待ちかまえている。さすが、ロンドン観光の目玉だけのことはある。昨日とはまったく違う様相に驚く。場所取りが大変だ。ロープの外に出ると警官から注意を受けたので、どこが一番いい場所なのと、逆に聞き返すと、宮殿正門が見えるあの角が一番とこっそり教えてくれた。




 バッキンガム宮殿の衛兵の交代は1時間かけてやる一大イベントだった。写真でよく見かける黒くて長い帽子に赤い軍服という兵隊が、目の前で行進したり、ブラスバンド演奏をしている。絵になっている。そのそばで騎馬警官が観光客の整理にあたっている。
 大英博物館を駆け足で見るために、日本語ガイドツアーというものに申し込んだ。これだと見どころ中の見どころが見られるし、時間が無いときに都合がいいと思ったからだ。12ポンドだから、入館料込みで2500円少々だ。イギリスが誇るこの博物館は金持ちが世界中からいわゆる絵画、装飾品などのお宝や遺蹟、遺構などを買いあさり、それが寄贈などされる経過をたどり博物館として展示されたというが、当初の8万点が今日では70万点に増えたという。なかには略奪されたものも相当あるのだろう。また、関係諸国から返還要求もあるものもあるという。
 マルクスはこの博物館のリーディングルーム…図書館で資本論を書いたという。彼はここから数分のアパートで慎ましい暮らしをしながら、毎日、この膨大な書籍が収蔵されている図書館で研究に没頭したのだ。また博物学者で知られる南方熊楠(1941没)も、ここで働きながら考古学などの研究をしたというからすごい日本人もいたのだ。彼の名前もマルクスと同様に、著名人の研究家としてボードで紹介されていた。
 大英博物館で見たものは、ロゼッタストーン…エジプト文明、メソポタミヤ文明、黒いオリベスク…旧約聖書、ミイラなど紀元前あたりの地中海文明の遺跡、遺構などが中心だったが、このように世界中の文化遺産が一堂に集められているのが、いいかどうか。見るものにとっては便利だが、なにか割り切れないものが残った。現地に保存されていても、戦火に巻き込まれてしまうこともあるだろうし…。
 急いで地下鉄を乗り継ぎホテルにもどり、荷物をつけた自転車を引いて午後5時前にパディントン駅からヒースロー空港行きのライナーに乗る。ターミナル1のカウンター前で70分かかって自転車の分解・梱包を行う。サイクルメーターは36794kmを記録していた。今回の旅の合計走行距離は2000kmを越えた。
 長い行列に加わって、チェックイン。アシアナ機は暮れなずむロンドンを離陸した。(了)


 


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