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キューバ見たまま


    カルチャーショック

 常夏の国キューバ。アメリカのお膝元の元気な社会主義国、陽気な人々とキューバ音楽…。
 いろいろな顔を持つキューバは行きたい国のひとつだったが、ついに訪れることができた。
 どうせならと、細長いこの島国を自転車で縦断することを思いつき、1400キロと長い距離を走るなかでの出会いや体験を綴ってみる。題して「キューバ見たまま」。




 1月15日。カナダ経由でハバナに着き、まずやったことはサンチャゴ・デ・クーバまでの列車チケットの確保だ。キューバは、貿易風が東から西に向かって吹いており、この風の助けを借りて東のサンチャゴからハバナに向かって走るのがサイクリストとしては正解だろうと踏んだ。
 もくろみ通り、随所で貿易風が背中をおしてくれたし、さらに朝の強烈な太陽光線の目くらましを喰らうこともないという二重の効果があった。

 サンチャゴ行きのチケットは中央駅の隣のラ・コウプレ駅で買えたが(写真@)、行列を並んで待つ間にいろんなことがわかってくる。
 先ず、列車ダイヤは3日に1便程度しかなく、チケットはIT化されていないので、いちいち手書き(写真A)。自転車の積み込みは可能だが、乗り場から遠く離れた貨車に行き、係員と交渉して積み込み料金を払う。そこまでやるのに、何人もの係りに聞いてまわるはめに…。
 要するに、中央駅の仕事は分業化され、相互の連絡が不十分で、およそ乗客サービスと感じさせるものは皆無だった。キューバ社会主義的事なかれ主義なのか。



 翌日、喧噪の待合コンコース(写真B)で、待てど暮らせど改札は開かず列車はベタ遅れ。ようやく3時間遅れで発車したころには相当のストレスと疲れが溜まった。

 列車は、一般国民も利用できるタイプで(写真C)、シートは破れ(写真D)、それも何度も張り替えた跡が見える。夜になるとどこからともなくゴキブリが這い出してきた。
 夜行列車は、キューバ人の様子を観察できるまたとないチャンスだった。商売用の商品をハバナから運ぼうと網棚を占領する男、深夜になっても傍若無人に笑い合う女達、真夜中の2時に演説を始める酔っ払い男…。カルチャーショックで眠れないまま夜明けを迎える。

    サンチィアゴも刺激的

 1月18日。列車はサンチャゴの近郊を徐行する。止まらない列車から乗客が次々と飛び降りて行く(写真E)。郊外のバラックに暮らす人たちが駅などないところで飛び降り、家路につくのだ。

 昼前、列車は大幅遅れで終着駅サンチャゴに到着。遅れを謝罪するアナウンスもなく、無事到着したからそれでいいだろうという感じだ。
 駅前で公認民宿「カサ」を探していたら、にこやかな少女が案内してあげると輪タクで先導してくれる。少女はカサに到着したが帰ろうとしない。それどころか、洗濯を始めると手伝ってくれたり、ビールを飲むと「飲みたい」という有様で、年齢は20歳という。タバコも吸い出した。大人に見せようと無理に背伸びしているように見える。どうみても15歳だ。もう帰れというと、明日も来ていいかと…。
 このあたりで、合点がいった。サンチャゴ手前のトタン屋根のバラックの光景が重なった。親たちに仕事はなく、娘に稼いでこいと云って追いだされているのだろう。少女の手に乗ったら、児童保護法違反でお縄になるところだった。



  翌日、サンチャゴ郊外のコーヒー農園発祥地跡などを巡りながら、自転車で60キロほど走り、世界遺産のモーロ要塞(写真J)に行く。
 途中でカヨ・グランマ島(写真F)に小舟で案内され、島のレストランに立ち寄る(写真GH)。島の少年達はブリキの小舟を作るのに余念がない(写真I)。
 漁師だという案内の男は、魚を捕るより客をのせるほうがうまく、地元産の15年物のラム酒をさかんに勧める。ヤミルートで安く手に入るのだという。夕方、くだんの男が姉と称する女性を伴ってカサにラム酒を届けにきて、今から飲みに行こうという。ボクは15年物の地元産ラム酒は製造中止になっていることをモーロ要塞近くのショップから聞いていたので、断って金を払い帰ってもらった。ラム酒を試飲したら、ひどい密造酒だった。
 被害額は2000円以下でたいしたことなく、日本の「オレオレ詐欺」と比べられば幼稚なものだが、ここでもこの国の現実を教えられた。しかし、この額はキューバ人の平均月収とほぼ同じ程度だから、若い詐欺師は1晩で1カ月分に相当する臨時収入を、疑うことを知らない日本人から得たことになる。

    馬車の街バヤモ

 1月20日。朝7時半、初の長丁場をこなすためサンチャゴの喧噪を抜け、山道を登る。10キロ走るのに1時間かかる。ロバに乗った少年2人が手を真横に差し出し金をせびってくる。峠に置かれた解放軍の戦車の木陰で休む(写真@)。強烈な太陽光線を避けるために西向きに走るのは正解だった。
 暑い。ヒツジも昼寝。大きな川では流れのなかに馬車を乗り入れて洗っている。
 途中のコブレでキューバ人の聖地、聖母寺(写真A)に立ち寄る。大きくて美しい教会だ。この教会詣の徒歩旅行者を何人も見かける。


 峠の店で柑橘類のマンダリンを買い、喉を潤す。ペーニャという砲弾のような果実も売られている。ようやく下り坂が始まる。
 延々と続くサトウキビ畑。道端にもトラックからこぼれたサトウキビが転がっている。農夫はナタでサトウキビを細かく切って牛に食べさせている。村では牛2頭で水タンクを運んでいた(写真B)。
 3時過ぎ、ポツポツと雨がぱらつき。ほっと一息。夕方、消耗の134キロを走ってバヤモの街に到着。

 1513年からの古い街バヤモは、キューバ国歌「ラ・バヤメサ」をペドロ・フィゲレードが作詞・作曲したところ。1869年のキューバ独立で国歌とされたが、現在も受け継がれている。様々なシーンで演奏される国歌だが、人々は演奏が終わるまで不動の姿勢だ。

 この街を有名にしているのは馬車(写真C)だ。どこでも乗合馬車を見かける。2人乗りから数人乗りまでいろんなタイプが堂々と闊歩している。小さな街のゆったりした暮らしぶりにマッチした公共交通だ。スペイン革命広場がある歴史地区へは馬車はおろか、自転車も押し歩き。特に記念公園内への自転車の持込みは禁止。聖域なのだ。

 カストロらグランマ号の乗組員が通ったという、バヤモ川沿いの小径を散策する。川海苔を採っている男がいる。

 キューバは2重通貨制度を採っている。旅行者を中心に観光対策として兌換ペソが流通しているが、旅行者だけでなく高級レストランなどでは一般国民もこれにならう。
 一般国民に流通している人民ペソとの間には、その価値に10倍ほどの開きがある。例えばラム酒は、売られている店により価格がまるで違う。兌換ペソしか使えないカサやレストランなどは別として、兌換ペソと人民ペソの両方が使える店では、旅行者の顔や雰囲気で請求してくるのでとまどう。人民ペソが使える道端の立ち食い店ではサンドイッチやハンバーガーとコヒーなど、信じられない安い値段だ。

    サトウギビ刈り最盛期

 キューバは農業国で、主な作物はサトウキビ。マンザニーロからハバナに向かって進むと、道の両側に延々とサトウキビ畑が広がる。

 生産量世界一を誇った18世紀末から19世紀にはおよぶべくもないが、近年は旧ソ連の崩壊とアメリカの経済封鎖によって減産を余儀なくされている。それでもキューバ農業にとってサトウキビは最重要作物であることは変わりなく、その生産量は現在世界第3位。主に中国などを相手に輸出され、この国の輸出総額の8割を占める。
 政府には砂糖産業省があり、販売と輸出は国営企業が行っている。これらのことを象徴するかのように、紙幣の20人民ペソ札にはバナナを担ぐ農夫とともに、サトウキビ刈り取り機の図柄(写真D)が印刷されている。



 そのサトウキビ刈り取りの現場に何度も出合う。たまには零細農家が鎌で刈り取り、牛2頭に引かせる荷車に積み込んでいる風景(写真E)も見られるが、ほとんどキューバ国旗をたなびかせた国営企業の「刈り取り隊」(写真F)によるものだ。
 巨大な三角錐が回転し、サトウキビを巻き込んで行く。カットされた茎と葉を並走する大型トラックめがけて吹き飛ばし、刈り進める。コサギが刈り取り機のすぐ近くまで群がり、あらわになった地面からミミズをついばむ光景(写真G)は絵になっている。
 とある刈り込み現場で作業員が、様子を見学していたボクに1本のサトウキビをナタで倒し、堅い皮をナタでそぎ、食べないかと差し出してくれた(写真H)。思わずかぶりついた。ちょっと硬い繊維から甘い汁が口に広がる。少年時代の味がよみがえってきた。



 刈り取られたサトウキビは大型トラックや2両連結トラックで、国内150以上もある製糖工場に運ばれる(写真I)。
 サトウキビは砂糖になるが、同時にラム酒にもなる。「ハバナクラブ」が有名銘柄で、ハバナの同名博物館にも足を運んだ(写真J)。キューバの男達は日常的にハバナクラブの「ブランコ」(写真K)が好きだ。アルコール度数35〜40%の1〜2年物をそのままグラスに入れて飲むのが流儀で、強いアルコールと甘い香りが口に広がる。夕方のベランダなどで世間話をしながら飲み交わしている(写真L)。700ミリリットル瓶が350円程度で買える。
 薬草と砂糖と柑橘類の汁に、すこし高級なラムを入れれば有名なモヒートになる。こちらは少し高めの300円ほど。観光客に抜群の人気がある。

 目の前で観察したモヒートの作り方。砂糖を小さじ1杯半ほど入れ、ミントの枝を入れて小型のスリコギ状の棒で潰して香りを出す。柑橘類ライムの汁をタップリ絞り入れる。
 炭酸水を4/1ほど入れ、クラッシュアイスを加え、ラム酒のブランコを4/1ほど入れる。最後にミントの葉を入れ、さらに炭酸水で満たし、かき混ぜる。ストローをゆっくり差し入れて供してくれる。

 砂糖は薄い褐色で、すこし湿り気がある。濃いめのキューバンコーヒーにタップリと入れて毎朝楽しんだ。

     カサから見える人々の暮らし

 街から郊外に出ると、沿道には黒豚の放し飼いと草葺きの民家があったりする(写真@。手前はサボテンの生垣)。こうした光景は異国の地を行く旅行者を飽きさせない。

 ラストゥナスを目指していると小さな町の小学校の前を通りかかった。自転車を止めて手を振ると、たちまち子ども達がフェンスの向こうに集まってきた。弾けるような笑顔が素晴らしい(写真A)。どの顔も栄養十分で健康。この国で、子どもが大切に育てられていることは、最貧国アフリカの子どもたちと比べても歴然としている。ここが社会主義らしいところかもしれない。



 ハバナの東660キロのラストゥナスでも、朝から辻々を馬車が行く。4〜5人は乗合って通勤に使っている様子。馬車以外の移動手段はほとんど見かけなかった。

 庶民の暮らしは意外と充実している。冷蔵庫、クーラー、テレビ、扇風機など何でも揃っているし、なかには電気スクータがある家もある。いっぽう、問題なのは水が質量とも十分でなく、下水道の整備も遅れているように感じた。

 宿泊施設として利用しているカサは「カサ・パルティクラル(Casa Particular)」と呼ばれ、たいていの街にある。
 キューバでは最近、個人経営が認められ、カサやレストランを経営するものが多い。カサの場合なら、韓国製のエアコンなどが備えられた客室やダイニングなどを用意しなければならないので、ある程度の資金力が必要になり、料理人も雇う場合もあり、雇用も生まれる。



 カサは、碇マークが目印で都市内のカサは入口も素っ気ない(写真B)、宿泊交渉が成立すると女将がパスポート情報を宿帳に記入する(写真C)。部屋も立派(写真D)で、頼めば夕食も(写真E)。時には素晴らしい中庭(写真F)や居心地のよいリビング(写真GH)を持つカサもある。ハバナのオーナー夫妻のカサのように客扱いがうまくサービスがよいカサは人気がある(写真I)



 カサは宿泊客のあるなしに関わらず、兌換ペソで月額200CUCを政府に収め、宿泊客情報を報告する義務もある。

 ラストゥナスのカサで英語が話せる息子から聞いた話では、1カ月のうち1週間は客はなく、経営はたいへんそうだ。
 客はカナダ、イタリア、スペイン、メキシコ、フランス、ドイツ、たまにロシアからといい、日本からはほとんど来ないので珍しがられた。

 18歳から徴兵制で2年間頑張ったという彼は、キューバ人の賃金は1カ月20〜40CUC程度なので、隣のメキシコに行く航空券が300CUCもするので旅行もできない。行きたい西側の国はカナダだと話す。

 ちなみにカサの料金は1室2ベッド20〜25CUCで、2000円前後。2泊すれば、キューバ人の平均月収が吹き飛ぶことになる。

 キューバでは大規模経営は認められていないようだが、大きな街にはチョットしたスーパーもある。個人経営の小規模または零細な店が主流で、それを野菜、果物、パン類を売り歩く行商が補完している。運輸関連では本物のタクシーのほか、タクシーと称している馬車、輪タク、トラックやダンプをバス代わりにして営業している人達も個人経営者なのだろう。

     世界遺産の街カマグゥイで

 1月24日。今日は距離が長いので朝飯抜きの早立ち。真っ暗な道をやって来た馬車は、後尾に空きカンをぶら下げ、火を燃やしている。追突防止のサインだろう。6時過ぎ、ようやく路面が見えてきた。7時前、大きな太陽が顔をだした(写真@)。初めて見るキューバの日の出だ。今日も強烈な暑さを予感させる。
 進む方向に細かな雨でも降っているのか、大きな虹が出た(写真A)。七色がすべて見える綺麗なアーチだ。10時頃、いきなりシャワーの洗礼を受ける。涼しい。
 カマグゥイを目指しているのだが、方向を見失い、黒バイ警官に教えられ、GPSルートの間違いに気づく。旧道を行こうとしていたのだ。
 午後3時、133キロ走ってスペイン植民時代の歴史的街並みの世界遺産、カマグゥイに到着。早速、鳥のもも焼きと赤い飯で昼飯抜きの空腹を満たす。絶品だった。



 ダンス塾では、ビートルズの早いテンポの曲に合わせて子ども達が踊っていた(写真B)。指導者がなにやら注意をするため中断。しばらくしてまた踊り出す。小学生からこうしてダンスの訓練を受け、大人のダンサーへと育ってゆくのだろう。

 街にはユーモラスな彫刻もあり(写真C)、統治したスペイン人の邸宅跡を訪ねる(写真E)。邸内はスペイン風の家具や食器などが陳列され、この街の名物の雨を蓄える天水システムが保存されていた(写真F)。

 スペイン人の聖職者が開いた病院跡も見た。当時としては本格的な病院で、検査器具や酸素吸入ベットなど最新設備が整えられ、子どもなど地域住民の治療にあたるほか、看護婦の養成まで行っている。カストロ革命政府が医療活動に力を入れているのは、こうした先駆的な医療活動からの影響もあるのだろう。

 カサ前の歩道のタイルに、「グラッシャス フィデル」と彫られていた。オーナーに理由を聞くと、昔の住人が彫ったのよということで、関心なさそうだったが、革命が国民から支持された一つの証しと受け取った(写真D)。

     コスタリカの留学生

 1月26日。ハバナまでのキロポストは500キロを切った。道路はヒビ割れているが、良く補修されている。幹に太陽を受けて輝くパームも美しい(写真F)。道端で農民が自家製の四角い大きなチーズを売っている。豆腐の8倍ほどの大きさで、クルマ目当てだ。自転車をキロポストに立てかけて休む(写真G)。



 14時、115キロ走って古い街、シエゴデアビラに着く。中央広場で、コスタリカからきた医学留学生デエゴ(25)とであう(写真H右)。ほかにアルゼンチンからのドクターと弁護士も。みんな若い。

 この街のアントニオ・ロアセス・イラオラ医科大学では学生200人のうち60人は医学を志す留学生という。コスタリカのほか、メキシコなど中南米から、またアフリカのアンゴラ、モザンビーク、シオラレオネからも。

 すでに5年学んでいるデエゴは、帰国したら一般病院で働きたいと将来の希望を話す。年2万ドルの収入が得られるからとドライだ。この国の社会主義制度では福祉医療システムが大きな比重を占めるが、自国だけでなく、後進国の医療システム支援や医療従事者の育成に力を割いていることが医学生デエゴの話から伝わってきた。

    「聖なる魂」サンクチスピリタス

 1月27日。サンクチスピリタスを目指す。強い貿易風が西に向かって吹き、背中を押してくれる。時速30キロ以上は楽に出せる。途中、オエラという大きなサヤの実を付けている樹があった(写真@A)。
 農夫が丸い大きなアルミカップにクリホレというビーンズを入れ、立ち売りしている。川を泳ぐ牛も(写真B)。
 大きな湖ザザでは、腰まで浸かって釣りをする人々が手を振っている。

 パームの葉で葺いたコテージ(写真C)と、その向こうの青空と雲。なんとも云えない風景だ。ずっとそこに居たい気分になってくる。



 午後1時過ぎ、82キロ走ってサンクチスピリタスに着く。ホステルのオーナーはスペインから来ており、バスクの血も混じっているという。ホステルの夕食…小エビのトマトソース煮、カレー風チャーハン、サツマイモと小芋の唐揚げ、スープ、トマトサラダ、フルーツ、プリンと大サービス。どれも美味い。

 朝のホステルでは、物売りからパンを買うのに、ベランダの手すりに赤いリボンを付けておくと、パン屋から声がかかる。ベランダの上から、現金を入れた布袋を下ろし、袋にパンを入れてもらい引き上げる(写真D)。パンは食卓にだされた。

 「聖なる魂」と呼ばれるこの街は、スペインのバスク地方の大地主が拓き、市長にも選ばれ、キューバ独立のためにも闘った。今日は、その市政記念日で、たくさんの子ども達が学校毎に集まり、パレードが始まる(写真EF)。広場の創設者像の前には新しい花輪が捧げられた。
 キューバで最古のヤヤボ橋の雰囲気もなかなか。川面を見ているとパレードを終えた女子小学生たちに囲まれ、写真を撮ってくれと云う(写真G)。ダンスを所望したら踊ってくれた。



 メイヤー教会は16世紀に建てられた古い教会で、黄色の塔が美しい。別の博物館では、奴隷の手かせ・足かせが見られた。1940年代に描かれたメイヤー教会前の絵(写真H)と、現代の風景を比べてみたが、そんなに変化が感じられない。増えたのはトラックなどクルマと排ガスだ。馬車のエコタクシーは現代でも健在だ。

 市内の一般病院を見学。受付の風景や待合室の様子、カストロのポスターが張られている医薬品が不足ぎみの薬局などを見た(写真Iは病院玄関)。この国の平均寿命は、男78歳、女85歳だというが、原則無料の保険医療制度の成果なのだろう。(注:2009年のWHO統計では、加盟国193カ国中、キューバは男の平均寿命は76歳で34位、女は80歳で35位)

 また、この街には1986年に創設された世界的に有名なシエンシアス医科大学があり6000人が学んでいる。留学生も中南米やアフリカ諸国など34カ国以上から受け入れ、途上国・貧困国の医療従事者の養成に大きな役割を果たしている。構内には連帯をテーマにした写真メッセージも掲げられていた。

    「イスナガの塔」とトリニダー

 1月29日。トリニダーを目指し、富士山に似た小山の裾を回って行く(写真@)。ニンニク畑が連なる。力持ちの大きなコブ牛を増殖させている農場ではカウボーイたちが働いていた。遠くに連なる変化に富む山並み、前景のパームの林に魅了される(写真A)。

 この国を走っていて、必ず目につくのはサトウキビとともに、見事な国樹のロイヤル・パーム(Cuban royal palm)だ。家々の入口に細長いキューバ島に1本の背の高いロイヤル・パームを配したシンボルが掲げられている。街路樹として、また歴史的建造物を引き立てたり、野山に群生している様は見事というほかない。
 高いもので樹高25メートル、幹はツルツルの灰白色で環状紋が美しく、中央部分がずんぐりと太い徳利の形をしている。長さ2〜3メートルの葉は、民家や、浜辺、道沿いのレストランの屋根葺き材として用いられ、独特のトロピカルな雰囲気を醸し出している。

 トリニダー手前12キロのイズナガ着。ロス・インヘニオス渓谷は「砂糖の谷」とも呼ばれ、18世紀末から19世紀末まで砂糖生産の中心地。往時には、50以上の製糖工場と、その周辺で3万人もの黒人奴隷が働かされていた。現在は世界遺産。
 農場経営者の邸宅だったところのレストランで休み、サトウキビの絞り器を見て、奴隷監視塔「イスナガの塔」に登る(写真B)。
 高さ45mの塔からはサトウキビプランテーションを360度、5キロ先まで見渡すことができ(写真C)、奴隷たちを監視した。サトウキビを運んだ往時の専用鉄道の貨車も見下ろすことができた。



 午後3時、トリニダーに着く。81キロ。
 とても暑い。カサの中庭は鳥が飛んでくるし、カナリアも競って鳴き交わすトロピカルな雰囲気。

 古都トリニダーは世界遺産で、カラフルなペイントが施された家の壁、オレンジ色の瓦屋根などスペイン植民時代から時間が止まったような街だ(写真D)。
 サトウキビ生産で巨万の富を築いたスペイン人邸宅を利用した歴史博物館は、彼らの成功物語だが、随所に奴隷を酷使した資料もある。例えば、サトウキビ畑での強制労働の様子、奴隷にくれる鞭、鎖を切り逃亡を図りながら追手の犬を鎌で切り捨てる若い奴隷の絵、奴隷船の難破の様子や船の見取り図、アフリカ東海岸と西海岸からのキューバへの奴隷航路図など。
 邸宅の屋上からは、街と海岸線、そしてサトウキビ農場の方向まで見渡せる。




 街の中央には、キューバに連れて来られた奴隷達を取引する「奴隷市場」跡が美しい公園として整備され、立派なパームが美しい姿でそそり立っていた(写真E)。

 トリニダーは音楽の街でもある。カサデラトロバという店では昼間からサルサの生演奏とダンスをやっていた(写真F)。ここでモヒートとフローズンダイキリを楽しむ。薬草の香りがラムと混ざり合って何とも云えない。「ロバに乗って記念写真を」と観光客向けの商売も…(写真G)。

 夜は、家庭料理を食べさせるレストラン、パラダールで子羊のシチューを食べたが、柔らかくて美味かった。ラ・カンチャンチャラという蜂蜜にレモン、ラム酒を混ぜたドリンクを飲ませる店でサルサを聴きながら過ごし、さらにカサデラムジカにハシゴして、サルサとダンスを楽しんだ。男も女も実にダンスが上手い。

 夜10時頃、カサに戻ったところ、社会主義青年同盟の小さな路上集会が行われ、音楽とともに何かの表彰が行われていた。夜に音楽付の集会とは、いかにもキューバらしい(写真H)。街のリーダーたちですかとカサの女将に聞くと、うなずいた。

    「南部の真珠」シエンフェゴス

 1月31日。海岸線を辿ると、汀線で海鳥が羽を休めていたりする。入江では投網で魚を追っている男がいた。しかし獲物は獲れない。カリビアンの素晴らしいリゾート地(写真@)、ビーチ、珊瑚礁が続く。
 サクラに似たミエリという巨木を見かけた。サクラよりもかなり大きな淡いピンクの花は満開だった。
 標高80メートルの峠の茶屋(写真A)で休憩後、午後2時、85キロでシエンフェゴスに到着。
 ボルドーからのフランス人移民が造った街のホセマルティ広場(写真B)に行く。



 街の規模にしては大きな広場だが、旧市庁舎、サンロレンス学院、フェレル宮殿などフランス風の建築物で囲まれている。「南部の真珠」と呼ばれ、碁盤の目のようにデザインされたフランス風の都市計画だ。公園では、街のフル編成のブラスバンドが練習に余念がない(写真C)。指揮者はアフリカ系の血を引く顔立ちだった。

 湾口がわずか300メートルほどでびわ湖に近い広さを持つシエンフェゴス湾。港には大きな貨物船も停泊している。
 夕日がきれいなゴルタ岬で、カリブ海の落日(写真D)を見ながらの夕食とする。落日後も太陽は様々に雲を染めあげ、ゆっくりと夜に向かって行く。夕方、その海で泳ぐ人も…(写真E)。

     革命の聖地サンタクララ

 2月1日。曇。微風だが北からの向かい風。標高90〜110メートルの台地を走り、サンタクララへ向かう。サトウキビの刈り取り隊の隊列が行く。微風は、やや強い北風に変わり時速はガタ落ち。疲れる。

 途中から、ハイウェイに入る。3車線と1車線ほどの広い路肩があり、そこは馬車も双方向で行きあえる。舗装はツギハギだらけの「ハイウェイ」だ(写真@)。午後2時、84キロ走りサンタクララに到着。



 チェ・ゲバラ革命軍の最後の戦いで有名なサンタクララ。1958年にバチスタ軍の装甲列車を爆破攻撃した地点が野外博物館(写真A)として保存されている。ここでは偶然にも、地域の戦跡保存会のグループと思われる集会が行われていた。国歌が流れたあと短い演説があり、20分ほどで解散したが、革命に決定的な影響を与えたこの戦跡を大切にしようという気持ちは外国人旅行者にも伝わってきた。
 日本人移民二世のなかには、アルベルト・タカハシや、ゴロウ・ハシモトのようにゲバラの指揮下に入ってバチスタの軍隊と闘ったものもいたという。

 さらに東へ2キロには高さ180メートルほどのカピロの丘があり、バチスタ軍が立てこもり、最後の抵抗を試みたが敗北。こうして革命軍は最後の勝利を手にした。
 自転車は小回りもきくので、こうしたスポット巡りにも向いている。ここにもゲバラのレリーフがあった(写真B)。

 街の中心、ビダル公園から西へ2キロの小高い丘の上にチェ・ゲバラの霊廟がある(写真C)。広大な敷地には右手に銃を持った高さ数メートルのゲバラの戦闘姿の像が建っている。傍らにはカストロの有名な演説「歴史は私を無罪にした。感謝しよう」の言葉の大きな看板もある(写真D)。
 ひっきりなしに観光バスが広場の一角にやって来る。

 ゲバラ像の下は彼の幼少期からの写真や所持品などの博物館となっており、隣は革命戦士のレリーフと灯明があるメモリアル。

 ゲバラ像には新鮮な花束も飾られており、社会主義革命への決定的な闘いでゲバラ達革命戦士が果たした役割を、半世紀を越えた今も人々は敬愛してやまないことがわかる。ここはキューバ革命の聖地なのだ。旧東ドイツのベルリンで見かけた巨大なレーニン像の台座に「NO」を落書きされていた現実との大きな温度差を感じざるをえなかった。

 ゲバラはもちろんキューバ人ではなく、出自はアルゼンチンだ。外国人であるゲバラがキューバ革命で決定的な役割を演じたことは、中南米における国際連帯の意義と影響が大きい。

     キューバの総選挙

 2月3日。朝7時半発でサントドミンゴを目指す。晴。朝のサイクリングは快調そのもの。
 ある村で、国旗が掲げられたもとで、何かの投票をしている。日曜日なので村の村会議員の選挙のようだが、実は、キューバの国会にあたる人民権力全国会議の議員を選ぶ総選挙だ。
 大人たちが選挙人名簿の管理をし、投票箱の両脇には男女の小学生が立っている(写真E)。これは面白い。大人は子どもの前で不正な投票は出来ないし、子ども達は未來の有権者としての自覚を学ぶことが出来る。
 通過するどこの村や町でも投票が行われていたから、キューバの総選挙の投票が行われているなかを走ったことになる。新聞によれば立候補者の8割は革命後に生まれた世代で、フィデル・カストロ前国家評議会議長もハバナで投票したという。



 人口5万のサントドミンゴにはカサなどなく、やむなく先が見えない大平原を、さらに70キロ以上を走り、コロンを目指す。自転車の機動性を発揮できるシーンだ。真っ直ぐな1本の道とサトウギビ畑、農場に放たれた牛や馬だけの世界だ。こういう時に限って後輪がパンク。素早くチューブ交換を行う。少年達が草野球をしている(写真F)。イチロウのことはよく知っていた。

 午後4時、119キロ走って、コロンに到着。ところが目差すホテルも廃業しており。案内人に連れられてきたのは、今回の旅で最低のカサだった。シャーワーから湯がでないだけでなく、シャワーヘッドも無い(写真G)、トイレの水も流れない。バケツに貯めた水で便器を流す仕組みだ。扇風機は壊れ、もの凄い音がする(写真H)。
 トイレの紙が無かったので、女将に用意して欲しいと頼むと、トイレットペーパーのロールの芯を持ってきて笑っている。ボクはなぜ紙が用意できないのかと詰め寄り、渡されたロール芯を床にたたきつけた。そうしたらわかったのか、手伝いにトイレットペーパーを買いに行かせた。
 しかし、あとでトイレを確かめたら、手桶が用意されていた。つまり用をたしたあとは、手桶に水を汲み、手で尻を洗うのだ。トルコでも見かけたし、インドでも同じやりかたなのだろう。ボクは「キューバ見たまま」と云いながら、実際は、この現実をよく見ないで、紙が用意されていないことに腹を立てていたのだった。
 女将がロール芯を手渡した意味をようやく理解し、逆に恥ずかしい思いをした。
 郷に入れば、郷に従えということも実践できなかった。改めてコロンという街の現実を知るとともに、総選挙とこの現実のあいだの落差を感じざるをえなかった。
 こんなカサだったが、エクステリアには趣があった(写真I)。

     保養地バラデロ

 2月4日。コロンの朝。地上にはアメリカのポンコツ車、空には珍しい複葉機が飛んでいる。

 バラデロへはペリコで右折し、北上する予定だったが、道路が極めて悪いとの地元の人のアドバイスで直進し、40キロ先のヨベラノスの街で北に転じる。ところが62キロ地点から凄いダートとなり、約3キロ続く。途中で牛が道を譲ってくれた(写真@)。

 キューバのビーチリゾート地バラデロは、耳かきのような形をした約30キロにわたる細長いヒカコス半島に続く。1930年代に米国の大富豪たちの別荘地として栄えたが、1959年の革命時に大富豪たちは逃げ帰り、残された館がレストランや宿泊施設として残った。有名なデュポンの別荘はレストランとゴルフコースになっている。

 ハイシーズンとあって、カサはどこも満室。ようやく一晩だけの部屋を確保できたが、料金は今までの150%程度で、レストランもかなり高め。



 砂州の幅は400メートルと狭く、主に北西側が海水浴を中心としたリゾートで、底抜けに明るい。海水浴場は、真っ直ぐに北の半島の先に向かって伸びており、所々にパームの葉で葺いた日除けがトロピカルなリゾートの雰囲気を醸し出し(写真AB)、人々はのんびりと砂浜の雰囲気を楽しんでいる。

 日本人と見ると、イチロウの話題で話しかけてきて、うまいビールを飲めるところがあるなど、たかりと思われる男も出没する。

 翌日は別のカサを探して移動。半島の付け根で、波打ち際の小さな二枚貝を拾う人を見かける。この人に習って二枚貝を拾った。とても繊細で美しい。これが白砂の元なのだ。
 別の場所では椰子の実を長い棒でたたき落としている男がいた。写真を撮っていると、手招きされ、目の前で落としたばかりの椰子の実を長い鎌で5分の1ほど切って、椰子のジュースが蓄えられた袋の口を出してくれ、飲んで見ろと渡してくれた(写真C)。椰子の実の汁は冷たくはないが、少し生臭くほの甘い。これをハバナクラブで割ればどんな味がするだろう。
 汁は深さ7センチほどの羊水のような白い袋に入っていた。

 砂浜で少し泳いでみる。コバルトブルーのグラディーションが果てしなく広がっている。どんなに大勢の観光客が押し寄せたとしても、決して埋まることなどないビーチが果てしなく続く。モヒートを飲みながら長旅の疲れを癒す。

     キューバの「アテネ」、マタンザス

 2月6日。バラデロからは制限時速100キロの高速道路を走る。ハバナ方面からのサイクリストが手を振っている。自転車も高速道路を走れるのだ。しかし偶然休んだ地点から、自転車通行禁止の標識。海岸沿いのルートを行く。
 途中、シュノーケリングとダイビングのスポットに大勢の客が入り込み(写真D)、入口にはサンゴの化石が無造作にならべられている(写真F)。またパンク。今度も後輪だ。

 ユムリという川で大きなチューブに乗った2人の男が投網を打っている(写真E)。アジのような魚の大漁だ。絵になっている。



 マタンザスはキューバのアテネなどと呼ばれている。貿易風に乗って帆船が自然と港に導かれるような湾に抱かれている。
 かつて奴隷が人口の6割も居て、その後裔たちがいろんなところで働いている。中心部のレストランには「キューバのアテネ」と看板が飾られていた(写真H)。
 カラフルな獲物を両手に持ち得意げに家路につく若い男と出合う。自慢したい気持ちはよくわかる(写真G)。
 探しあてたカサのロケーションは最高で、湾に面しており、庭先の螺旋階段を降りた洞窟から海へ向かって泳ぐこともできる。サービスも良く、価格も25CUCと平均的な安さだった。

     「老人と海」の浜辺を行く

 2月7日。晴。マタンザス市内の排気ガスも凄い。登り坂をほうほうの体で抜け出す。
 悪路が続き、標高100メートルの峠を越えて、高速道路に出たらバナナの房を売っている何人もの男達を見かける。高速道路でバナナを売るとは!
 ハバナから50キロ東のサンタクルズは漁師町だ。ラム酒「ハバナクラブ」の醸造所もある。

 ここのカサの経営者は漁師が本業で、庭の片隅には、二つの大型冷凍庫があり、魚をさばく台には、頭を切り落とされた大きな魚が無造作に置かれている。カジキマグロだ。150センチほどある。頭があれば2メートルは越えると思われる(写真@A)。冷凍庫のなかのマグロ、シイラなども見せてくれた。

 漁師は明日の夕食にとカジキを勧め、さばいてくれた。シイラを買い求めてやってきた男は半分にぶつ切りにしてもらい8CUCで買っていった。



 このあたりは、ヘミングウェイの「老人と海」の舞台となった海だ。小説では、この海で老いた漁師が巨大なカジキと格闘したが、獲物のカジキはサメに食われて頭と骨だけになってしまい失意の帰港となる…。まさにそのシーンを彷彿とさせる海だ。

 夕食は、レストランでロブスターにした。美味いのだが、とびきりというわけでもない。このロブスターには足の代わりにヒレがついていた。

 漁村の河口には、古びたカジキの像(写真B)があり、鯨の絵を描いた看板もあった。たしかに大型魚を追い求めて生計を立てている漁村で、河口には現役の小型漁船が何隻も舫われていた(写真C)。

 2月9日。日程を帰国日に合わせるためグアナボにも滞在した。バラデロに似た白砂のビーチが延び、静かで素朴なハバナ近郊の穴場リゾートだ(写真D)。



 レストランにはキューバ革命54年周年のポスターが張られている。その横で老婆がレストランのゴミ箱から、アルミ缶だけを集めている現実も見た。

 翌朝、浜辺ではベンチやパラソルの準備をしている。風強く、白波が立っている。波打ち際の白い砂を巻き上げ、次の瞬間、真っ白な波しぶきが襲う。バルデロに劣らないビーチは静かだ。あっと驚くパラサーフィンの妙技が目の前で展開された(写真E)。空気で膨らませたパラセールを風下にむけるとパラは空に舞い上がり、サーファーが素早くボードを足につけたと思ったら、高速で沖合に滑っていった。時々、風の勢いを借りて4〜5メートルもジャンプしている。約3時間、少し泳ぎつつ白砂のビーチでモヒートを飲みながらキューバ最後の至福のひとときを過ごす。

 2月11日。美しい街タララを通過し、コヒマル海岸に着く。死んだように静まりかえった漁村だ(写真F)。ヘミングウェイの小説「老人と海」のモデルとなった寒村で、彼はこの海でカジキを釣り上げた。小さな砦のそばには彼の胸像があり、海に向かって笑いかけているように見える(写真G)。近くには彼が通ったというバー「ラ・テラザ」もあったが、現在、内部は非公開。モヒートを飲みながら、ヘミングウェイが愛した海を眺める。

     ハバナにて

 ハバナ近郊の海辺には小さな油井があり、無人で動いていた。波打ち際の岩礁の上にも。この国の石油自給率は5割近くあり、不足をベネズエラなどに頼っているが、こうした小規模油田も大切にしている。

 コヒマルからハバナまでの数キロを海際の高速道路を行く。美しい海はハバナの入口まで広がっている。高速道路はそのまま湾内をトンネルで抜けるので、左折してモロ要塞裏に進む。
 そこにはキューバ危機の際にソ連が配備したミグ戦闘機、ミサイル、高射砲などが野外展示されていた。

 ここからハバナ市内に入るフェリーは、待つほどもなく頻繁に市民を運んでいる。5分ほど湾内を横切ったと思ったら、ハバナ中心街の埠頭に着いてしまった。



 オビスポ通りにあるヘミングウェイの常宿ホテル、アンボス・ムンドス(写真C)で、キューバ人の女医マリアさんらと待ち合わせ、ビールを飲みながらキューバの医療制度の話をいろいろ聞かせて貰う。

 実は入国時にハバナで過ごした2日間の間に、モロ要塞が見えるハバナ湾(写真@)、国会議事堂(写真A)や革命博物館(写真B)など、主な観光スポットを訪れていた。



 オビスポ通りでは竹馬ダンスチームが突然現れたり(写真D)、美しいアルトのピーナッツ売りの声がこだまし(写真E)、道端の老人の姿(写真G)など、飽きることがない。
 下町はポンコツ車の排ガスが酷く、喉をやられてしまうので閉口だ。ポンコツを道端で修理する光景(写真F)もあちこちで見かけた。中国人と勘違いして「チノ!」、「チノ!」と声がかかる。暑さと薄紫の排ガスと喧噪のなかで、「チノ!」と呼ばれても、どうでもよくなってくる。日本人は少なく、中国人が圧倒的だからしかたない。

 こうして24日間、延べ1400キロを越えるキューバ縦断サイクリングは終わった。
 2月12日。ハバナ最終日は帰国準備にあて、時間をかけて自転車のパッキングを行う。翌、早朝、タクシーでハバナ国際空港に向かい、刺激的だったキューバに別れを告げた。



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