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ブルガリアからセルビアへ




    ソフィアへ


 2010年6月2日。成田からミュンヘン経由で順調にソフィアへ。ソフィアでは、埼玉大学の留学経験もある女性ガイド、メリッツァに迎えられ、「シルクロード雑学大学歴史探検隊」のブルガリアの自転車旅が始まった。女性2人含む総勢19人。深夜12時近くに市内中心部の三つ星ホテルに入る。翌朝、9階のホテルの窓から、山が近くに迫っているのが見えた。

 10時に旅行会社がチャーターした中古ベンツのバスでトルコ国境近くのルビネツに向かう。メリッツァによると、ここ数日、雨が続いており、今日も雨だと気の毒そうな顔もせずに云う。
 気温は15度で曇り、部分的に青空。残雪のビトシャ山・・・標高2000メートルを右に見みながらソフィアをあとにする。車窓風景はなだらかな丘陵で、後半は大平原となり麦畑とヒマワリが延々と続く。
 育ち始めた苗のなかにヒマワリが1輪だけ咲いている。クルマに混じってロバが木材を満載した荷車を引いている。時が経てば、こうした牧歌的風景もなくなるのだろうか。



 途中、立ち寄ったブルガリア第2の都市プロブディヴィのネフェット・テペと呼ばれる岩山のてっぺんからは街並みが一望できた。
 岩山を降りる途中、とある建物の前を通りかかったら、若いアメリカ人が「素晴らしい建物だよ」と見ることを勧めてくれた。内部のブルガリア女性解説者によると、建物は バヤトバハウス といい、取り壊し寸前のブルガリアの伝統的建築物を日本のODA援助によって修復されたという。ある建築学の日本人学者が復元に協力したのだ。看板にはユネスコと日本の基金により修復されたとあるから、ブルガリアと日本との関係は単に琴欧州だけでなく文化関係にも及んでいることが判る。
 メリッツァも、トルコ国境近くに古代遺跡が多数発掘され、そこにも日本が建設に協力した遺蹟博物館があるという。

   自転車組み立て、トルコ国境まで往復

 6月4日。まず自転車の組み立て。Y氏のBSモールトンのチェーンリングが乱暴な荷扱いで歯こぼれと曲がりが起きていた。かなり上から落とされたらしい。彼はチェーンリングを外して街の工場で直してきたが、完全ではない。自分で曲がり調整し、なんとかアウターリングが使えるようになった。トルコ国境へ出発。

 昨年はトルコ国境を越えて、ブルガリアに入ったのだが、そのカピタン・アンドレーボ村まで走り、戻って来るという時差調整を兼ねた足慣らしだ。午後1時半、カンカン照りの暑いなかをスタート。湿度もかなりある。

 途中で荷車に牧草を満載したロバを見かける。まだまだ現役だ。さらに子育て中のコウノトリの巣を何度も見る。アフリカとヨーロッパ各地を往復しているのだ。
 2時間ほどで、トルコ国境に到着。折り返す途中でシャワーの洗礼だ。雨宿りに入った店でブルガリアン・オーソドックスの神父らと交流。クルマのくせにビールを飲んでいた。おおらかだ。(本日の走行65km)


   ソフィアへサイクリングのスタート

 6月5日。今日から、ソフィアに向けてサイクリングのスタート。ダニエラという在東京ブルガリア大使館で働いている若い女性と、その友人でソフィアに住んでいるゲルガナの二人の若い女性が、一緒にサイクリングしたいとやってきた。どちらも美人なので、一行は大歓迎。ボクもいろいろ自転車の調整など手を貸してしまった。日本勤務は9月までというダニエラは夏休み休暇で帰国したのだが、休暇を利用して日本人と付き合う心にプロ意識を感じる。

 今日は晴、そして曇へ。マイカーのトランクに10匹ほどの子豚を詰め込んだボロクルマがエンコしており、ドライバーがクルマの下に潜っいる。草原ではコウノトリの大群を見かけた。エサ場のようだ。

 ブルガリア特有の亡くなった人をたたえる張り紙。顔写真、死亡年月日、献詞、張り紙を掲示した命日の日付などが印刷されている。亡くなった人の遺族が地域に伝えるためらしい。

 午後2時にホテルに到着。すぐにバスで「トラキア遺蹟博物館」に向かう。


 途中、定住してしまったジプシーの家の前を通る。放し飼いにされた馬が道路の上にいた。
 紀元前4世紀に栄えた「トラキア文化」が、ブルガリア南部一帯に広がる。その発掘や調査がなされ、日本も調査や博物館建設に協力した。遺蹟博物館は2009年2月に完成したのだ。内部には遺蹟のレプリカや出土品、写真が展示されている。
 夕食の席でダニエラは「初めて60キロを走ったが遅れてすみませんでした。ほかの国でもいいですので、また誘ってください」と、流ちょうな日本語で挨拶。なかなかの才媛だ。(本日の走行60km)


  「雨でも走りますか」

 6月6日。朝のバスでは、メリッツァが「雨でも走りますか」と我々が、さも物好きであるかのような問いかけをしてきた。昨夜からの雨がまだ続いていた。
 9時にサイクリングスタート地点に着いたが、雨はまだ止んでいない。しかし自転車がトラックから降ろされると3人ほどを残し、ほかは走ることに…。これは成り行きのようなものだった。こんな場合、気持ちが揺れるのは皆同じだ。
 スタートしてほどなく雨は止んだものの、濡れた路面や水たまりの中をゆく。車間距離が短く、乾いた路面と、濡れた路面の集団走行の走り方の区別をしないメンバーもいて、転倒を誘発する危険もある。

 午後、岩山を切り裂いて作られた道路を行く。両側は水成岩の絶壁だ。落石もあるだろう。標高330m、短いトンネルを抜け、日本で云えば、奥入瀬渓流といった趣のところに出てきた。ここはバチコボでちょっとした観光地だ。ホテルは激流が響く山峡にあり、雰囲気は最高だが、陸の孤島だ。


  ホテルから歩いてバチコボ僧院を目指す。いわゆるブルガリアン正教だが、ロシア正教、ギリシア正教も同じとのメリッツァの説明。緩やかな「参道」脇には土産店が軒を連ねている。呼び込みは激しくないものの、神社仏閣前の雰囲気は世界共通のようだ。このなかでヨーグルトを売る店から小さいサイズを求める。やや酸っぱいがとてもマイルドだ。ダニエラから、ジャムと蜂蜜をもらって混ぜると絶品になった。

 僧院は古い歴史をそのまま背負っている雰囲気があった。修行を行う僧が暮らす僧院とイコンを祭って祈る半地下式の礼拝堂があり、そこに入った。ブルガリアの信者らは神妙にイコンの胸に手をあてたり、キスしたりしている。ローソクに点火して大きな燭台にそれを立てると半地下の礼拝堂が一段と輝きを増す。若い男性から何かを求められた係りの僧がイコンの背後のドアに姿を消したと思ったら香油のようなものを捧げ持って出てきた。古い伝統の儀式がここでは息づいているようだ。胸の谷間が見える若い女性達もここでは神妙に振る舞っていた。大使館員のダニエラもローソクに点火し、燭台にそれを立てたので、「あなたも信者なのですか」と聞いても彼女は睨みつけるだけ。彼女とその友人は「東京で会いましょう」と帰っていった。僧院の入口で女の子が水を飲んでいる。

 僧院で駐車場の整理係りをしていた僧は、毎晩55度のラキアを飲んでおり、共産主義は嫌いで、仏教は宗教ではなく、ブルガリア正教こそ最高の宗教だと云いたい放題。(走行43km)

  バラの香りとサクランボ

 6月7日。プロブディフ郊外の10km地点(標高175m)より9時スタート。先導車のフロントグラスとトラックの後部には「ベロ・コロナ」(自転車隊列)と書かれていて、追い抜くクルマに知らせる工夫もしている。ベロは自転車のこと。道端の挨拶はオートロ(お早う)、ドーベルベン(今日は)。

 香水を作るバラ栽培の畑を沿道で何度も見かける。馥郁たる香りがあたりに漂っている。「バラの谷」では今頃「バラ祭り」をやっているだろう。
 標高700mを過ぎてあと7キロだという。9%の長い登りが続く。地元のおじさんが、篭いっぱいのサクランボを差し出し、好きなだけ食べろという。道端の出会いだ。

 バタック村に入る。1020mのこの村にもブルガリアン正教の教会が輝いていた。1149mの峠らしきところに到着。その後、峠を下り、たいそう素晴らしい景観の人造湖のほとりのホテルで休憩し、スイカとメロンを食べた。

 17時過ぎ、スパで有名なベニングラードに到着。温泉といっても、日本でいう「温水プール」で、熱い温泉が楽しめるわけではなかった。(距離81キロ。約1000m弱の登り)


 6月8日。冬のリゾート、ボロベッツに向けて8時出発。長い登りが続く。1250mの高所にも村がある。タバコ、ポテトの栽培や林業に従事して暮らしている。これで山の高いところに集落が存在している謎が解けた。イスラム教の信者が多いという。村人はバケツリレーで薪を倉庫に運び入れていた。

 遠くに高さ2700m級のリラ山脈、手前に広がる集落。絶景だ。1382mの峠まで21キロ。ここから最高所1397mへ少し登って、一気に標高差1000mを下り、ユンドラへ。Hさんが「下ろし金の上を下っているようで恐ろしい」と云ったように、舗装が荒れており細心の注意が必要だった。暑い。74キロでドルナバンヤに入る。間近にコウノトリの巣を見かける。

 81キロ走ったマリツァで全員バスに乗ることにするが、MiとMaさんは最後の長い坂も登って行くという。長い距離を走り終わり、足は売り切れというのに、たいしたパワーだ。Miさんはボクらがホテルについてバーでビールを飲んでいたころに到着した。時速15キロでスキー場までの坂道を登ってきたという。(走行81キロ)

   テレビ局が取材

 6月9日。標高1336mからスタート。好天でも寒いので長指手袋と脚カバーを付ける。これが正解で快適。
 降りたところは標高957m。平原の向こうに残雪のスキー場も見える。標高差300mの下りだった。美しいお花畑が延々と続く高原だ。一面のピンクだったり、一面の紫だったり。
 馬の一家が野原を駆け回り、道路を横断しようとしてトラックに囲まれ立ち往生。トラックが警笛を鳴らし追い払うと、道路を駆けだした。まるでサイクリスト集団を先導するかのようで面白かった。馬たちは道路の反対側に抜けて、ねぐらに帰っていった。

 飛翔中のコウノトリを見かける。サドルの無いパンクした自転車を曳いているジプシーらしき男。日本との経済格差は歴然で、異国の経済大国からやってきたサイクリング集団を彼らはどのように見ているのだろうか。

 もともと黒い顔が日焼けしてさらに黒く、そして刻まれた深い皺の女性が歩いている。ジプシーの集落を通過してゆく。地元テレビでは、ジプシーの男の子が梅の実を失敬しようとして民家に入り込み、撃たれて大怪我をしたことが、この国ではニュースになっている。

 突然 btv というブルガリアのテレビ局の取材カーが止まった。ソフィア大学日本語学科卒の女性アナと、2日前に別れたダニエラも同乗している。

 日本人そっくりの女性アナが長沢代表にマイクを向ける。シルクロード遠征のことやブルガリアの印象、次の計画などたくさんの質問をぶつけてきた。ダニエラの仲介によるこの取材で、日本人サイクリング集団のことがブルガリアテレビ局から全国に知られてしまうこととなる。



   リラの僧院

 6月10日。バスで160キロ離れたリラの僧院へ。リラの僧院はとても山深いところに作られている。バスは急流沿いの道を登り詰め、山懐に入った。僧院は深い緑に囲まれてひっそりとたたずんでいる。背後に聳える高い山には残雪が輝いている。それに競い合うように僧院の金色のド−ムも光り輝いている。ブルガリア正教のなかでも別格扱いのこの僧院は幾たびかの戦火や火災をくぐりぬけ、ブルガリアの人々の心の支えとして、今日まで存在し続けている。いわばブルガリアの精神世界のシンボルなのだ。
 礼拝堂は奇跡を起こすとして深くあがめられ、独特の色使いとデザインで、精神世界を具象化した絵画やイコンで飾られ、また地獄画とおぼしき画もあって、何とも表現のしようのない世界遺産である。
 内部は様々な祈りの装置があり、20人ほどの人たちが何かの儀式をしている最中だった。僧院の庭の水はとても冷たく、おいしい水だった。

 13世紀に創設されたボヤナ教会を訪れる。ごく小さな教会ながら、1979年にユネスコの世界遺産に登録された。内部の写真撮影は禁止だったが、この教会を世界的に有名にしているのはフレスコ画だ。
 壁画は1259年に遡るが、それらはより早い時期に描かれていたフレスコ画の上に上書きされており、東ヨーロッパの中世美術のなかでも、保存状態は完全。とても高い宗教世界を描いており、芸術的にも評価が高いものだ。第一ブルガリア王国当時のデザインで内部は王族の墓として用意されたという。

 アレキサンドリア・ネフスキー教会にも立ち寄る。内部は丁度、敬虔な祈りの最中で、僧の祈りに合わせて歌われたゆったりとしたテンポの男性4部合唱の独特のハーモニーが聖堂内に響いていた。

 こうしてブルガリアの旅は僧院などの観光で締めくくられ、8日間のブルガリアの自転車旅もいよいよ国境越えで終わる。無理のない印象的な自転車旅ができた。夕陽を浴びたソフィアも美しかった。


   ラキア・ウエルカム

 6月11日。いよいよセルビアである。朝8時から強烈な太陽を浴びる。ソフィアで先に帰国するH君と別れ、バスで郊外へ。50キロ走って午後1時半、何の問題もなくブルガリアを出国し、自転車でセルビアに入国。ピロトの街まで30キロを走るが風景が特別変わるわけではない。

 国境まで出迎えてくれたセルビア側の人たちは日本語女性ガイドのビザラ。オーストリア製のレーサーに乗っている27歳のマルコ。旅行社のマネージャー、ミーシャ。それにトラックドライバーのリュマだ。

 ピロトの宿に向かう途中、とある民家で歓待される。待っていたのはなんとラキア・・・セルビアの焼酎だ。このラキアで乾杯。伝統的織物、絨毯織りのデモを見せてもらう。庭にはバラ、サクロンボ、イチゴなどが見られセルビアの夏を彩っている。日本人は初めてと織り手の老婆は語る。5万円ほどする絨毯はとても買えない。

 次いでバルカン半島で最初に建築された木造2階建ての豪邸博物館を見学する。19世紀に建てられたものだが、男の部屋、女の部屋の作りにイスラム文化の影響が見られる。ピロトは自転車が多い。案内してくれた男性は自転車が盛んなことについて、一番は北京で2番がピロトだと冗談を言う。

 ガリというホテルでも玄関先で2人の男性から歓迎を受ける。一人は大きなパンと塩を乗せた盆を持ち、もう一人は杯に注がれたラキアを並べた盆を持っている。パンをちぎって塩を付けて食べ、次にラキアを飲むのがゲストの礼儀という。
 つまり、他国から侵略を受けるという長い歴史的体験を重ねてきたこの国では、外国からの訪問者にたいし、私たちはあなたの敵ではないということを示すために、まず訪問者の空腹を満たすパンと不足した塩を与え、ついでラキアを飲ませるという習慣が定着したと勝手に解釈した。このラキア・ウエルカムはボクの知る限り、セルビアだけの風習のようだ。(走行85キロ。ブルガリア内走行446km。)



   「モスクワの夜は更けて」

 6月12日。道端で手を振る女性は「セルビア」と叫んでいる。ここはセルビアよというわけだ。貧しいが、素朴な人々ばかりだ。MTBの中年男が我々を追い抜いていった。自転車通勤者も多いピロトの街だ。
 つぎはぎだらけの舗装の山道を行く。農地はサクランボ、トウモロコシなどがこまめに栽培されている。農作業中の上半身裸の男が鉢巻きを取って手を振っている。こちらも応える。黒い頭巾をかぶった年配の女性が鍬を担いで道を歩いている。零細農業で機械が使えない農家が多い。なかには知り合いのトラクターに便乗して帰宅する老婆もいる。
 ケムスカという寒村で休憩。相当に貧しい村のように見受けられる。ブルガリアと同じく亡くなった人の告知チラシがここでも見受けられた。目の前を羊飼いと30頭の羊が行く。
 数キロ下ったところに大きな滝があった。路面は悪いが、なかなか変化に富んだコースだ。

 途中の小さな町の広場には第二次世界大戦でドイツと戦い犠牲になった兵士の記念碑があり、多くの兵士の名が刻まれていた。記念碑が作られたのはバルカン半島にユーゴスラビアが存在した時代であり、記念碑には消えてしまった国のマークである「星に鎌とハンマー」が当時のまま残されている。

 「アメリカ人」という変わった名前のレストランで夕食。肉のように見えるのはパブリカのフライ、パブリカの酢付けが美味かった。ビールはまずく、すぐにラキアに切り替える。小さなガラスの杯だ。老人のバンドが我々のために演奏してくれる。曲のほとんどはロシア民謡だ。「モスクワの夜は更けて」など懐かしい歌声を聞いていたら、長い歴史のなかでロシア文化がこの国の人々に、大きな影響を与えていると思うと、なんだか悲しくなってくる。(走行96キロ。)



     「ラキアを飲むかい」

 6月13日。セルビアでは、外国人旅行者には滞在証明書の所持が義務つけれており、朝、そのカードを貰った。
 ニシュは人口35万の大きな街で、2両連結の路線バスも走っている。温泉の街でもある。どこから来て、どこに向かうのかと、通りがかりの人が聞いてくる。

 街はずれでは、悪ガキ5人が馬車に乗り、鞭を馬にくれるので馬は狂ったようにサイクリング集団の真横を駆け抜ける。馬車の車輪が外れそうで危ない。サイクリング集団の前に出た馬車は、突然折り返して戻って来た。悪ガキが我々を挑発しているのだ。

 道端の墓地を見る。夫婦で入るのが習慣のようだ。存命者の墓には没年の部分が空白にしてあるのですぐ判る。なかには草茫々の夫の墓が放置されたままというのもあり、存命中の妻は何をしているのか、病気かもしれない。日曜日なので墓参りの人もチラホラ。「ラキアを飲むかい」と勧められたメンバーもいた。セルビア正教の教会も静かに立っている。

 この国では、娘が結婚すると門を麦穂やトウモロコシで飾り付け、娘を送り出す風習がある。トウモロコシには子宝に恵まれるようにという意味が込められているとミーシャが話してくれた。(88キロ走行)



     炎天下、大いに消耗する

 6月14日。8時スタート。相変わらず暑いが、走れば涼しい。今日は100キロの長丁場。終わりの部分にはやや緩い登りが控えている。
 10キロ先の名水ポイントで休憩。地元の人も水汲みに来ている。旅人や後世の人のためにこうした「泉」をこしらえた昔の人は偉い。いまでいうところの「公共事業」を私費で行ったようなものだ。泉には十字架が立っていた。
 メンバーは疲労気味なのか、それとも100キロの長丁場に集中しているのか、みんな寡黙だ。次に休んだのはミーシャの友人の家。広い前庭でコーラなどで歓待してくれた。午前中に4回休憩して12時にジャゴディナという街のレストラン「小さな天国」に到着。
 サラダ、お決まりのセルビアスープ、そしてポークのソティーだが、食いきれない。ビザラは「これでもセルビヤ人の半分の量を注文してあります」と云った。

 午後2時、気温35度の「くそ暑い」なかをスタート。いきなりの登りで、大いに消耗する。日本でも走らないような酷暑の走りだ。水を頭から掛けたり、腹や腕に掛け、体温を下げるのも覚えた。
 その後の下りは「やけくそ激走」で大いに飛ばす。やや気温低下のなか「最後の登り」を頑張る。(走行106キロ)


      レールに前輪を取られ草むらへ

 6月15日。午前中はセルビアの自転車レース「ツールドセルビア」を避けて、ルートが変更された。
 海外サイクリング初参加のTさんが、広軌のレールに前輪を取られ、草むらに飛び込む。リムが曲がってしまった。現場は大きな川に架かる橋の手前で、道路が鉄道橋を共用しているところ。レールに注意などの警告は何もないところだ。基本的には本人の走行体験の不足が原因と見られる。この橋は廃線ではなく、時々、交通を遮断して列車も通るというから、自転車に対する配慮があってもよいところだ。

 午前中60キロ走行。12時過ぎにランチタイム。ミーシャとビザラは途中で仕入れた「カット野菜」や、ハム、パン類で瞬く間に簡単な料理を作ってくれる。
 Iさんは、Tさんの曲がった前輪リムを薪で叩いて直してしまった。二つの丸太を切った「イス」にリムを渡して固定し上から叩く原始的なやり方だが、これでリムの変形が直るのだから不思議だ。
 ポジャレヴァに到着。(距離は100キロ。)



     ドナウ河を越える

 6月16日。晴れと曇り。鉄道橋を渡るために列車待ち。列車はゆっくりと通過。しばらく走ると今度は、列車が来るかどうか判らない踏切に「踏切番」が一人、退屈げに座っていた。

 トラクターでトマトを売りに来た、おじさんからトマトを買いあげる、あっという間に「完売」。甘い。

 35キロ地点でドナウ河に到着。ゆったりと流れている。岸辺には15世紀の城壁だったところが公園として残っていた。河口の黒海まで500キロという。ドナウに架かる長さ2000メートルの橋を自転車で越える。
 58キロ、レストランで昼食。ラキアで歓迎。ラーメンに似た細いパスタ入りのスープは味も似ている。ハンガリーの肉とキャベツ料理が出た。ハンガリー人の店主は「働けば良い暮らしができる」と質問に答えて云う。
 87キロ地点、ドナウ河が大きく湾曲しているところでサイクリングは終わる。

 雷鳴とどろくドナウ河畔をベルグラードへバスで向かう。稲妻が歓迎。そして大雨のなか再びドナウを越えて市内へ。市内中心部の古いレストランで打ち上げ。みんないい顔をしている。(走行87キロ。セビリアの合計512キロ。両国の合計走行距離は958キロ)

     ベオグラード大学と交流

 6月17日。シティーセンターからドナウ河畔の公園へ。そして要塞。ここからドナウに流れ込むサバ川は950キロ先のスロベニアから流れ下ってくる。
 午後から、市内中心部にあるベオグラード大学の日本語学科の教授陣、学生、文学部副学部長らと交流する。日本語教育を33年間続けている大学だが、学生達は卒業しても、日本語を生かせる仕事に就けるわけではない。むしろ他の学部生を含め、この国で働くことが不可能だと女性の文学部副学部長は20年前からのセビリア経済の疲弊について触れ、多くの卒業生はアメリカで働くという。
 学生達は就職などという動機ではなく、柔道やマンガが好きで日本語を学んでいるといい、日本に留学したい学生もいたが、経済的理由でほとんど不可能に近い。講師陣として日本から2人の日本人女性も働いて居る。
 簡単なセレモニーで長澤氏が、シルクロードを走って、この国を選んだわけや、日本から一人5冊の書籍を持ち込んだことを話したり、歓談したりした。なかなか意義あることである。

 

 夕食は大学の近くの野外レストランで、日本人と日本語を学ぶ学生が隣り合わせに座って交流を深めた。ボクらが通過してきたボジョレバに住んでいるというネマニャ君は、谷川俊太郎の詩を朗読してくれるなど、かなりうまく日本語が話せるだけでなく、昨年のシルクロードの報告書も読めるほどの上達ぶりだった。
 一緒に、食事をした学生のなかにはすでに日本留学が決まっている女子学生もいたが、ほとんどの学生にとって日本への留学は「夢のような話」というのが現実で、すこし悲しい気がした。

 翌朝、ラキアのせいで深く眠っていたボクをYさんが起こしてくれ、午前4時半のグループの日本への帰国を見送った。


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